原田宗輔
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原田 宗輔(はらだ むねすけ、元和5年(1619年) - 寛文11年3月27日(1671年5月6日))は、江戸時代前期の武士。仙台藩重臣。奉行職[注釈 1]。原田宗資の子。伊達騒動(寛文事件とも)当事者の一人。通称は甲斐で、原田甲斐(はらだ かい)として知られる。
- ^ 仙台藩の役職に家老は存在しない。家老にあたる職を奉行と呼称する。
- ^ 原田家の定められた家格「着坐」は家格としては5番目であるが、原田家は着坐中の上席「一番坐」の一角を占めた。この一番坐は「宿老」とも称され、家老への登用も多い名門であり、父・原田宗資(通称・甲斐)も奉行を務めた。父の代の元和3年(1617年) から船岡城を居城としていた。
- ^ 世間では仙台藩の一家臣というイメージのみが強いが、後述の伊達綱村後見人を務めた伊達宗勝・田村宗良はそれぞれ宗輔の母方の叔父・いとこ。 父・宗資も伊達家庶流桑折家からの養子。 姉や息子も梁川家や飯坂家など庶流家と縁組している。 実際のところ宗輔は重臣の中でも伊達一族色が濃い人物である。
- ^ 歌舞伎『伽羅先代萩』の悪役・仁木弾正のモデルとなるなど、藩政を牛耳った奸臣として悪名高いが、後に山本周五郎の小説『樅ノ木は残った』で主人公とされ、御家安泰のため死んでいく忠臣として描かれている。
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