伊達宗勝の時代
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寛永18年(1641年)からは政宗の十男で仙台藩第2代藩主忠宗の異母弟の宗勝の領地となる。万治3年(1660年)に、宗勝は3万石の分知を受けてこの地に陣屋を置き、仙台藩の内分分知大名としての一関藩が正式に立藩した。ただし、宗勝の所領は後代の田村家と同じ3万石だが、領域は多少異なっていた。 この2年前、(1658年(万治元年))に忠宗は死去し、嫡男の綱宗が跡を継いで第3代藩主となるも、綱宗は不行跡を理由に、一関藩が成立した年に逼塞を命じられていた。このため、綱宗の隠居により2歳で藩主となった綱村の後見役として、大叔父の宗勝、叔父の田村宗良(忠宗の三男)が選ばれて後見政治が行なわれた。ところが、幼君の下で藩内で政権をめぐる家老(奥山常辰と茂庭定元)の抗争が起こり、さらに後見である宗勝と宗良の間にも確執が起こるなど、伊達騒動(寛文事件)の下地となる対立が出来上がっていく。 仙台藩の主導権は宗勝の下にあり、宗勝は自らの専断に反対する派閥を徹底して弾圧した。このため、寛文11年(1671年)に伊達一門の伊達宗重が、所領境界問題の裁定を不満として宗勝の専断や不正を幕府に訴えて受理されたことにより、伊達騒動が発生する。この騒動は、家老の原田宗輔が宗重に斬りかかって斬殺したことから宗勝一派が逆臣として一掃、失脚した。宗勝は罪人として土佐藩にお預けとなり、延宝7年(1679年)に死去した。息子の宗興や孫の千之助もお預けとなり、後に死亡したことにより宗勝家は断絶した。一関藩は改易となり、その領地は仙台藩に収公されて家臣も仙台藩に帰属した。
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