伊達宗勝の時代とは? わかりやすく解説

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伊達宗勝の時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 08:12 UTC 版)

一関藩」の記事における「伊達宗勝の時代」の解説

寛永18年1641年)からは政宗の十男で仙台藩第2代藩主忠宗の異母弟の宗勝の領地となる。万治3年1660年)に、宗勝は3万石分知受けてこの地に陣屋を置き、仙台藩内分分知大名として一関藩正式に立藩した。ただし、宗勝の所領後代田村家と同じ3万石だが、領域多少異なっていた。 この2年前、(1658年万治元年))に忠宗は死去し嫡男の綱宗が跡を継いで第3藩主となるも、綱宗は不行跡理由に、一関藩成立した年に逼塞命じられていた。このため、綱宗の隠居により2歳藩主となった後見役として、大叔父の宗勝、叔父田村宗良(忠宗の三男)が選ばれ後見政治が行なわれた。ところが、幼君の下で藩内で政権をめぐる家老奥山常辰茂庭定元)の抗争起こり、さらに後見である宗勝と宗良の間にも確執が起こるなど、伊達騒動寛文事件)の下地となる対立出来上がっていく。 仙台藩主導権は宗勝の下にあり、宗勝は自らの専断反対する派閥徹底して弾圧したこのため寛文11年1671年)に伊達一門の伊達宗重が、所領境界問題裁定を不満として宗勝の専断や不正を幕府訴えて受理されたことにより、伊達騒動発生する。この騒動は、家老原田宗輔が宗重に斬りかかって斬殺したことから宗勝一派が逆臣として一掃失脚した。宗勝は罪人として土佐藩お預けとなり、延宝7年1679年)に死去した息子の宗興や孫の千之助もお預けとなり、後に死亡したことにより宗勝家断絶した一関藩改易となり、その領地仙台藩収公されて家臣仙台藩帰属した。

※この「伊達宗勝の時代」の解説は、「一関藩」の解説の一部です。
「伊達宗勝の時代」を含む「一関藩」の記事については、「一関藩」の概要を参照ください。

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