伊達家との確執
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/16 17:55 UTC 版)
正徳2年(1712年)11月、林信篤から仙台藩伊達家との和解を説得される。同時に稲葉正往も伊達吉村に浅野家との和解を説得した。先祖の浅野長政は、伊達政宗から絶交の通告を受けており、それ以来浅野家と伊達家は絶交状態になっていた。 正徳3年1月、再び林信篤から伊達家との和解を説得される。稲葉正往・林信篤は、浅野家と伊達家の不和は江戸城内で見苦しいこと、他家でも和解の事例はあることなどを指摘し、説得を試みたのである。当初、吉長は先祖に対する不孝であるとして和解を渋っていたものの、親戚であった前田綱紀、徳川吉通らの説得もあり、和解に応じる姿勢に転じた。しかし、伊達家側は国元の重臣の反対を抑えられず、和解は実現しなかった。なお、両家の和解が実現したのは、実に約280年後の平成6年(1994年)のことである。
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