伊達家臣から宇和島藩の家老へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/18 03:23 UTC 版)
「山家公頼」の記事における「伊達家臣から宇和島藩の家老へ」の解説
天正7年(1579年)、誕生。 最初は最上氏に仕えていた。その後、伊達政宗に仕えて頭角を現し、政宗の庶長子・秀宗が宇和島藩に封じられた際に藩惣奉行(筆頭重臣・1000石)として付けられた。 初期藩政の構築のみならず、仙台藩(伊達宗家)や江戸幕府との関係調節に苦慮し、仙台の政宗に宇和島藩10万石のうち3万石を隠居料として割くことで宗家からの借財返済を繰り延べたり、幕府の大坂城石垣修復事業に参加したりした。こうした行為が秀宗や桜田元親ら他の重臣らとの対立を招いた。また公頼自身、政宗が秀宗を監視するために送った目付を兼ねており、浪費の改まらない秀宗の行状を政宗に報告し、政宗が秀宗を諌める書状を出しているほどであった。
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