伊達家時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/06 14:27 UTC 版)
天正6年(1578年)、上山城主・上山満兼が彼女の夫・輝宗と連合し兄・義光を攻め、義光は不利な状況に陥った。兄の危険を察した義姫は、駕籠で陣中を突っ切り夫の元へ参じ、輝宗に抗議をし撤兵をさせた。 天正12年(1584年)、政宗が伊達家の家督を継ぐ。1585年には輝宗が二本松義継に殺され未亡人となった。彼女は、隠居したといえど影響力のある輝宗を疎んじた政宗が、謀殺したのではないかと疑い、政宗に関して不信感を抱いたとされる。さらに政宗が各地に進撃する中、最上家とは遠縁にあたる塩松氏に攻め込んだり、最上家の本家にあたる大崎氏に攻め込んだことが、彼女に不快感を抱かせた。 一方、彼女の兄・義光も政宗に警戒を強め、自らも庄内侵攻を開始し、伊達・最上間の対立もより深刻化していった。このことが、彼女の伊達家中での立場を悪化させていった。 天正16年(1588年)の大崎合戦では、政宗が義光によって包囲され危機的な状況に陥った。このような状況において、義姫が戦場に輿で乗り込み、両軍の停戦を促した。義光は和睦は屈辱であると感じたが、妹の頼みを断ることができなかった。このため、80日ほど休戦の後に両者は和睦している。この後、義光は伊達・大崎間の調停に努めるが、伊達側は最上側に不信を抱きうまくいかなかった。この時、義光が義姫に間を取り持つよう哀願した書状が残されており、義姫が兄から信頼され、かつ伊達家において発言権を持っていたことが分かる。
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