寛文事件
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一般に伊達騒動と呼ばれるのは、この寛文事件を指す。 綱村が藩主になると、初めは大叔父にあたる宗勝や最高の相談役である立花忠茂が信任する奉行(他藩の家老相当)奥山常辰が、その失脚後に宗勝自身が実権を掌握し権勢を振るった。宗勝は監察権を持つ目付の権力を強化して寵愛し、奉行を上回る権力を与えて自身の集権化を行った。奉行の原田宗輔もこれに加担して、その中で諫言した里見重勝の跡式を認可せずに故意に無嗣断絶に追い込んだり、席次問題に端を発した伊東家一族処罰事件が起こる。 かつて奥山を失脚に追い込んだ一門の伊達宗重(涌谷伊達家)と宗勝の甥にあたる伊達宗倫(登米伊達家)の所領紛争(谷地騒動)が起こり、一旦宗重は裁定案を呑んだものの、宗勝の寵臣の今村を筆頭とする検分役人による郡境検分で問題が生じたことにより、伊達宗勝派の専横を幕府に上訴することになった。 寛文11年(1671年)1月25日、柴田朝意は騒動の審問のために伊達宗重より早く江戸幕府より江戸出府の命を受け、仙台より江戸に立つ。また朝意は田村宗良に、自身の老齢を理由に古内義如の江戸出府を要望する。 同年3月7日に伊達宗重、柴田と原田が老中板倉重矩邸に呼ばれ、土屋数直列座の下で1度目の審議が行われ、最初に朝意が審問を受けた。この審問で、藩主の伊達綱基(後に改名して綱村)への処分がないことが確定した旨の書状を朝意は隠居の綱宗の附家老や田村家家老に送っている。なお、原田と柴田の証言の食い違いにより、古内も呼ばれることとなった。 同年3月27日に当初予定の板倉邸から大老(1666年(寛文6年)就任)である酒井忠清邸に場所を変更し、酒井忠清を初め老中全員と幕府大目付も列座する中で2度目の審問が行われるが、その審問中の控え室にて原田はその場で宗重を斬殺し、老中のいる部屋に向かって突入した。驚いた柴田は原田と斬りあいになり、互いに負傷した。聞役の蜂屋可広も柴田に加勢したが、混乱した酒井家家臣に3人とも斬られて、原田は即死、柴田もその日のうちに、蜂屋は翌日死亡した。関係者が死亡した事件の事後処理では、正式に藩主綱村は幼少のためお構い無しとされ、大老宅で刃傷沙汰を起こした原田家は元より、裁判の争点となった宗勝派及び、藩主の代行としての責任を持つ両後見人が処罰され、特に年長の後見人としての責務を問われた宗勝の一関藩は改易となった。 刃傷事件の顛末の記録として、当事者のものとしては古内義如の書状や酒井家家臣の記録があり、伝聞としては伊達宗重家臣の川口が事件直後に古内に聞いた話や末期の柴田からその家臣や藩医が聞いた話、同じく虫の息の蜂屋からその息子や娘婿が聞いた話などがあり、公式記録としては『徳川実紀』や『寛文年録』、仙台藩の「治家記録」などがある他、後世の実録物を加えるとその量は多い。また歌舞伎『伽羅先代萩』『伊達競阿国戯場』や、山本周五郎の小説『樅ノ木は残った』などの題材となった。 派閥は以下のとおり。役職は「仙台市史」より抜粋。 反伊達宗勝派伊達安芸宗重(一門、反奥山派→反宗勝派) 柴田外記朝意(奉行、宗勝から奥山派とされた) 古内志摩義如(奉行、宗勝から奥山派とされた) 茂庭周防良元(若年寄兼評定役) 片倉小十郎景長 里見十左衛門重勝(小姓頭、旧反奥山派) 伊東七十郎重孝 蜂屋(谷)六郎左衛門可広(聞役) 田村顕住(出入司、渡辺と原田から宗重派とされた) 主な伊達宗勝派伊達兵部少輔宗勝(一門大名、後見役。当初は田村宗良同様に奉行の案を追認するだけであったが、後に実権を掌握) 奥山大学常辰(奉行筆頭、初期には綱宗や立花忠茂の信任により宗勝以上に実権を握り、内分分知両後見人と仙台藩との関係を巡って宗勝や田村宗良と対立し、失脚) 原田甲斐宗輔(奉行、当初は宗勝からは悪評価を受けていたが、奥山失脚後に宗勝の太鼓持ちとして台頭) 津田玄蕃景康(若年寄兼評定役) 高泉長門兼康(江戸番頭) 志賀右衛門由清(徒小姓頭、谷地騒動を寛文事件に発展させた検分役人、但し「悪儀の同類ではない」とされる) 浜田一郎兵衛重次(徒小姓頭、谷地騒動を寛文事件に発展させた検分役人、但し「悪儀の同類ではない」とされる) 今村善太夫安長(目付、谷地騒動を寛文事件に発展させた検分役人。寵臣の中心人物) 横山弥次郎右衛門元時(目付、谷地騒動を寛文事件に発展させた検分役人) 早川淡路永義 渡辺金兵衛義俊(目付→小姓頭。寵臣の中心人物)
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