寛政重修諸家譜との矛盾
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/29 16:14 UTC 版)
なお、130歳などという高齢は考え難く、話の内容に荒唐無稽なものや当時の世相に反したものも多く、以下に述べる『寛政重修諸家譜』内の「渡邊茂」の記述と矛盾する点が多々あるため、架空の人物、または渡邊茂を偽称した別人ではないかとする説もある。 『寛政重修諸家譜』における「渡邊茂」の記述は、『渡辺幸庵対話』における幸庵の申告と以下の点で大きく異なる。 近江国にて七千石を知行し、寛永13年(1636年)に致仕している。「徳川忠長切腹時に浪人した」とする記述はない。 寛永15年(1638年)正月四日に88歳にて死去している。法名玄心。その墓所は泉岳寺にあり、茂の代々の子孫もその地を葬地としている(余談であるが、茂の曾孫に当たる渡邊保(やすし)は、柳生三厳(十兵衛)の娘を妻に娶っている) 没年から逆算すると生年は天文20年(1551年)となり、幸庵が述べた生年である天正10年(1582年)より30年以上前になる。 渡邊茂の通称は、新蔵、または久左衛門であり、久三郎という呼称を用いたとする記述はない。また「幸庵」を名乗ったとする記述もない。 大番となったのは慶長10年(1605年)である。また、伏見城番となったとする記述はない。 「姉川をよび三方原長篠小田原関原等の役に供奉し軍功あり」という記述はあるが、島原の乱に参陣したという記述はない。 『諸家譜』と『対話』で生没年が全く異なることや戦功・経歴の差異、海外から帰国したと称したにも関わらず、渡邊家に一切の咎めがないこと(当時、海外へ出た日本人の帰国は禁じられている)、また、柳生宗矩の弟子を自称しているが、諸家譜の記述に従えば、元亀2年(1571年)生まれで、20歳以上年下の宗矩に弟子入りしたかどうか疑問であるといった点により、「渡辺幸庵」と「渡邊茂」を同一人物とするには問題があると言える。
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