ち‐し【致仕/致▽事】
致仕
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/11 15:33 UTC 版)
致仕(ちし/ちじ・致事)とは、官職を退いて引退すること。君主に預けた身体の返却を願うと言う意味により、俗に「骸骨を乞う」とも称した。
概要
日本の律令法では数え年の70歳以上になった官人は致仕を申し出ることが出来た(これに対して70歳を待たず病気その他で官を退く事を辞官(じかん)と称した)。五位以上の貴族は天皇に上表を提出してその許可を得、六位以下の官人は太政官に届け出て、太政官から天皇に奏聞された。判任以下の者は太政官と式部省で手続が行われた。致仕が認められると、位田・位封・位禄は在任中のまま、職封・職田は致仕前の半分が支給され、季禄は支給されなかった。また、何らかの事情で致仕者が参内をした場合には現職時代の職と同一の官職に就いた者の前が充てられた。また、致仕した者が都か畿内に居住する場合には内舎人が派遣されて見舞いを受けることもあった。ただし、全ての者が直ちに致仕が認められた訳ではない。吉備真備は70歳で致仕の上奏前に造東大寺司長官に任じられ、右大臣を経て77歳になって致仕を認められ、同じく右大臣に至った大中臣清麻呂は3度目の上奏で致仕が許されて81歳で致仕が認められた。平安時代に入ると、致仕の上奏をしても認められない事例が増加し、11世紀に入ると前期に平親信・源俊賢・藤原公任が認められたのを最後に致仕が行われなくなり、出家をしない限りは終身官に留まるようになる。極端な事例では、右大臣兼右近衛大将であった藤原実資が87歳まで右近衛大将を兼務し、右大臣在職のまま90歳で病死している[1]。
江戸時代にはこの例に倣い、大名が藩主の地位を退いて子供に家督を譲る場合を「致仕」と称した。致仕には大名自身の高齢・病気によるものと江戸幕府から処罰を受けて隠居を迫られた場合に分けることができる(例:安政の大獄など)。大部分が前者のケースであり、致仕後に後を継いだ新藩主から生活費となる金米が与えられた。また幕府の意向を受けて、所領の一部が分与されたり、極めて稀ではあるが特に功績が大きい者に対しては別途幕府より隠居料が支給され、没後に子孫に継承される場合もあり得た(実質的な加増)。前者の理由で退いた者は致仕後は趣味に勤しんだり、新藩主の藩政の後ろ盾になったりした。
脚注
- ^ 倉本一宏「平安貴族社会における老い」『日本歴史』776号、2013年1月/改題所収倉本「平安貴族社会における[老い]」『摂関期古記録の研究』思文閣出版、2024年10月。2024年、P259-282.
参考文献
- 野村忠夫「致仕」『国史大辞典 9』(吉川弘文館 1988年) ISBN 978-4-642-00509-8
- 野村忠夫/上野秀治「致仕」『日本史大事典 4』(平凡社 1993年) ISBN 978-4-582-13104-8
- 藤木邦彦「致仕」『平安時代史事典』(角川書店 1994年) ISBN 978-4-040-31700-7
- 高田淳/笠谷和比古「致仕」『日本歴史大事典 2』(小学館 2000年) ISBN 978-4-09-523002-3
致仕
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/04 14:45 UTC 版)
時間が遡るが、范雎は白起があまりに功績を挙げるので、恐れて白起が趙の首都邯鄲を攻めようとするのを止めさせた。その後、昭襄王に讒言して白起を誅殺させた(白起の項も参照)。 その後任として范雎をかくまってくれた恩人の鄭安平を推挙したが、その鄭安平は2万の兵と共に趙へ降ってしまった。さらに范雎を昭襄王に推挙してくれた王稽は他国と通じた罪で誅殺された。これらのことで范雎は憂えたが、昭襄王の信頼は変わらず、また推挙者が罪を犯したことによる連座も不問にされた。 この時に、遊説家の蔡沢が范雎に商鞅・呉起・文種・伍子胥などのことを例に挙げ、「貴方様がこれらの人とどれほど違いましょうか」と、自らの手腕で国を隆盛させた時の王が健在中は贔屓にされるが、王の代が変れば贔屓により鬱積していた不満が出てきたりなどで悲劇的な末路を描くだろう(月満つれば則ち虧く)、と長く権力の座にあることの危うさを説き、范蠡に倣って致仕(引退)することを勧めた。范雎はこの言を入れて致仕し、後任の宰相に蔡沢が就いた。天下に覇を唱えんとする国の臣下最高位から潔く引いたが、范雎は商鞅たちのような末路を辿らずに済んだ。そして秦はその後も、范雎が築いた方針を礎に覇業を順調に進めたのである。
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致仕
出典:『Wiktionary』 (2021/08/15 01:16 UTC 版)
名詞
語源
元は、中国の科挙に合格して官職に在る進士(官位を貰える様な高級官僚)の退官を意味。
中国古代王朝(隋)では、科挙に合格し進士となって官職に就いた者が退職する年齢を70歳と定めていたので、無事、数え年70歳を迎え、官位を返上し、俸禄を辞する事を指した。
日本では、唐王朝に習って大宝律令を定めて以降、官僚が数え年70歳以上になると,五位以上の貴族官僚は天皇に退職願いの文書を奉り,六位以下の下級官僚は太政官に申し牒を出して,太政官から奏聞して退官する規定を設け、致仕と称した。70歳に至らず退官する事は、辞官と称し区別された。
関連語
翻訳
語意1
- 英語: resignation (en)
語意2
品詞の分類
名詞およびサ変動詞(役務) | 雇役 就役 仕官 廃黜 致仕 |
名詞およびサ変動詞(進退) | 退場 却退 致仕 退勤 退歩 |
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