蔡沢
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/30 04:58 UTC 版)
蔡 沢(さい たく、? - ?)は、中国戦国時代の秦の政治家。燕の綱成(現在の河北省懐安県または万全区)の出身。秦の昭襄王、孝文王、荘襄王、秦王政(後の始皇帝)の四代にわたって仕えた。
経歴
蔡沢は若い頃、諸侯のもとを遊学し、大小問わず諸侯に仕官を求めたが用いられなかった。ある時、唐挙という人相見に寿命を見てもらうと、「先生の寿命は今から43年です」と教えられた。蔡沢は笑って礼を言って立ち去り、「米を食べ、脂身を噛み、馬を駆り、黄金の印を抱え、紫の綬を腰に結び、主君の前で礼を尽くす。そのような富貴栄華を享受するには43年もあれば十分だ」と御者に語った。
その後、燕を離れて趙に赴くが追放され、韓・魏に向かう途中には賊に釜や鍋を奪われた。のちに秦の相国の范雎が自分の推挙した鄭安平と王稽が重罪を犯したことに慚愧していると聞き、秦に赴いた。蔡沢は昭襄王に謁見するため、范雎に使者を送り、「燕の客の蔡沢は、天下の雄俊で弁舌に長けた知恵者です。彼が一度秦王にお目にかかれば、あなたの地位は奪われることでしょう」と煽った。范雎はこれを聞いて、「諸子百家の学説について私は熟知している。多くの者の弁論も、私はことごとく論破してきた。そんな私の地位をどうして奪うことができようか」と言って蔡沢を呼び寄せた。
蔡沢は尊大な態度で向かい合うと范雎と長い論戦を繰り広げた。蔡沢は商鞅、呉起、文種、比干、伍子胥、申生のように忠義を尽くして功績を上げたにもかかわらず、君主や国家の不明により死を遂げた人物を挙げ、過度な権勢の保持は危険であり、栄達の極みにある時こそ慎むことの重要性を強調し、「身と名を共に全うする者が最上である。名を残しつつ身を失うのはその次であり、名が辱められながらも身を保つ者は最下である」と説いた。さらに盛者必衰の法則として「太陽は正中に至ればやがて西に傾き、月は満ちれば欠ける」、君子の在り方として「国に道(道義)がある時は仕え、国に道がない時は隠遁すべし」などの思想や易経や論語の語を引いて范雎の身を案じ、好例として范蠡を挙げ、適切に権力を賢者に譲り、地位に執着せず身を退くことで長期的な安泰と名声を保つべきと主張、「天に昇りつめた龍はもはや悔いしかないと言うが、これは行きて帰らざることを言うのである。どうかよく考えられよ」と締めくくった。
范雎は蔡沢を絶賛し、上客として迎え入れた。数日後、范睢は昭襄王に、「客人の蔡沢は弁舌に優れ、世の移り変わりに明るく、秦の国政を委ねるに足ります。彼に及ぶ者はなく、私自身も彼に及びません」と申し上げた。こうして蔡沢は昭襄王に召見されると大いに気に入られて客卿に任じられ、范睢はこれを機に病を理由に相国の職を返上した。蔡沢は新たに相国に任じられると、計画を立て、東周を滅ぼした。
しかし、蔡沢は相国となって数か月後、讒言を受けて殺されることを恐れ、病を理由に相国の職を返上し、後に綱成君の号を賜った。
蔡沢は秦の使節として燕に入り、3年かけて両国で盟約が結ばれると、秦王政15年(紀元前232年)に燕は太子丹を人質として秦に送った。
参考文献
蔡沢(さい たく)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/26 00:42 UTC 版)
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