大宝律令
「大宝律令」とは、日本で初めて律・令がそろった本格的な法律のことを意味する表現。
「大宝律令」の基本的な意味
「大宝律令」は、第42代文武天皇によって701年に施行された法律。主に刑部親王と藤原不比等の2人が編纂にあたった。内容は、刑法にあたる「律」と、行政法・民法にあたる「令」とによって構成されている。中央集権国家を確立することを目的に制定された法律で、律6巻、令11巻の全17巻からなる。大宝律令が制定された飛鳥時代は、聖徳太子が「十七条の憲法」を制定して天皇中心の国づくりに着手した黎明期を経て、大化の改新による国政の改革や白村江の戦いにおける敗戦などを通じ、国家としてのまとまりが求められた時代であった。朝廷による支配体制は徐々に確立されてはいたものの、地方豪族の内乱は収まらず、安定した政治基盤を築くためには中央集権的な制度を担保する仕組みづくりが急務とされていた。その法的な仕組みを体系づけたのが大宝律令であり、この法律の制定によって初めて中央集権体制が確立されたといえる。「大宝律令」の内容は、中国の律令制度に倣ったものである。現存しておらず、「続日本紀」や「令集解」などの古文献に一部残存しているのみであるが、法律の考え方や骨格はそのままに細部を日本の実情に合わせて改変したことがうかがえる。大宝律令以前にも、日本で制定されていた律令に「近江令」と「飛鳥浄御原令」がある。近江令は、668年に第38代天智天皇と中臣鎌足によって制定された日本で初めての令とされているものである。飛鳥浄御原令は、689年に第41代持統天皇によって発布された令で、中国の律令に倣って体系化された初めての法律であるとされる。しかし近江令、飛鳥浄御原令ともに制定されたのは令だけであった。681年に本格的な律令の制定を命じたのは、第40代天武天皇であるとされる。こうして誕生した大宝律令は、律令ともにそろった日本で初めての法律として、江戸時代の終わりまで続く政治体制の実質的な法的礎となった。
「大宝律令」における「律」は、刑罰に関する決まりであり、「五刑八逆」について示されている。五刑とは、罪を犯した際に科せられる5つの罰で笞刑・杖刑・徒刑・流刑・死刑をさす。笞刑と杖刑は棒打ちの刑罰であり、笞刑では細い棒、杖刑では太い棒を用いて打つ。徒刑とは懲役刑のことである。流刑は島流しのことをいい、罪の重さによって、近流・中流・遠流の3種類に分けられた。死刑では斬首と絞首刑の2つの方法が用いられた。八逆とは五刑よりさらに重い罪を犯した者に科せられる罰で、謀反・謀大逆・謀叛・悪逆・不道・大不敬・不孝・不義の8つがそれにあたる。多くの場合、親族や天皇、国家などに対する犯罪で、いずれもほぼ全てに死刑が適用された。
「令」は、行政組織や租税徴収などに関する決まりを定めたものである。行政組織は中央と地方とに分け、中央では「二官八省」の官僚体制をしいた。二官とは、太政官と神祇官をいい、太政官が国政を担い、神祇官が祭祀を取り仕切った。八省は太政官の下に配置された専門機関で、左弁官局管轄の中務省・式部省・治部省・民部省、右弁官局管轄の兵部省・刑部省・大蔵省・宮内省の8つをさす。地方行政では、「国郡里制」をしいた。これは全国を60前後のエリアに分け、さらにそれぞれを郡と里に分けて管理する方法である。国と郡、里を治める者はそれぞれ国司、郡司、里長といわれる。国司は中央の官僚が任命されて地方に赴き、任期6年で戸籍の作成や税の徴収、兵士の招集、裁判などを手掛けた。郡司には地方の豪族があたったが特に任期の定めはなく、国司を補佐して税の取り立てや軽度の刑罰に関する執行などを行った。里長は無位無官の者の中から人格者が選ばれ、郡司を補佐して税の徴収などにあたった。
「大宝律令」の語源・由来
「大宝律令」は701年に文武天皇によって施行されている。701年は文武天皇の代の元号である大宝元年にあたるため、この年に施行された律令の法体系という意味で、大宝律令と名付けられたのがその語源である。「大宝律令」と「律令国家」の違い
「律令国家」とは、「律」と「令」という法律に基づいた統治を制度化した国家全般をさしていう概念。一方で「大宝律令」とは、701年に日本で施行された法律の固有名詞であり、国家を統治する決まり事を体系的にまとめた法律そのものをさす。「大宝律令」の使い方・例文
「大宝律令」の使い方・例文としては、「律令制は、645年の大化の改新によって始められ、701年の大宝律令制定によって完成したといえる」「養老律令とは、大宝律令をよりいっそう日本の国情に合わせて改訂した法律です」「大宝律令では、兵役で納める税の在り方として、軍団・衛士・防人の3種類が明確化された」などを挙げることができる。たいほう‐りつりょう〔‐リツリヤウ〕【大宝律令】
大宝律令 (たいほうりつりょう)
大宝律令
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/11/11 01:33 UTC 版)
大宝律令(たいほうりつりょう)は、701年(大宝元年)に制定された日本の律令。「律」6巻、「令」11巻の全17巻。唐の律令を参考にしたと考えられている。
概要
大宝律令の意義に挙げられるのは、中国(唐)の方式が基準の制度への転換にある。
冠位十二階の制度は、当初は徳目をあらわす漢字で個々の官位を示していたが、数値で上下関係を示す中国式に替わっている。また評も、中国で地方行政組織の名称に使われてきた郡に用字を替えている。
遣隋使の派遣以来、7世紀の間に100年ほどの歳月をかけて蓄積した中国文明への理解によって、朝鮮半島経由の中国文明ではない、同時代の中国に倣うための準備が可能になってきていたことを意味する[1]。
内容
大宝律令は、日本の国情に合致した律令政治の実現を目指して編纂された。刑法にあたる6巻の「律(りつ)」はほぼ唐律をそのまま導入しているが、現代の行政法および民法などにあたる11巻の「令(りょう)」は唐令に倣いつつも日本社会の実情に則して改変されている。
この律令の制定によって、天皇を中心とし、二官八省(神祇官、太政官 - 中務省・式部省・治部省・民部省・大蔵省・刑部省・宮内省・兵部省)の官僚機構を骨格に据えた本格的な中央集権統治体制が成立した。役所で取り扱う文書には元号を使うこと、印鑑を押すこと、定められた形式に従って作成された文書以外は受理しないことなど文書と手続きの形式を重視した文書主義が導入された。
また地方官制については、国・郡・里などの単位が定められ(国郡里制)、中央政府から派遣される国司には多大な権限を与える一方、地方豪族がその職を占めていた郡司にも一定の権限が認められていた。
大宝律令の原文は現存しておらず、一部が逸文として『続日本紀』や『令集解』古記などの他文献に残存している。
757年に施行された養老律令はおおむね大宝律令を継承しているとされており、養老律令を元にして大宝律令の復元が行われている。
復元大宝令
大宝令と養老令の編目の順序は異なっていたと考えられているが、大宝令の編目順序は明らかでない。以下は復元の一例である[2][3][4]。
- 官位令
- 官員令(養老令では職員令)
- 後宮官員令(養老令では後宮職員令)
- 東宮家令官員令(養老令では東宮職員令・家令職員令)
- 神祇令
- 僧尼令
- 戸令
- 田令
- 賦役令
- 学令
- 選任令(養老令では選叙令)
- 継嗣令
- 考仕令(養老令では考課令)
- 禄令
- 軍防令(養老令では宮衛令・軍防令)
- 儀制令
- 衣服令
- 公式令
- 医疾令
- 営繕令
- 関市令
- 倉庫令
- 厩牧令
- 仮寧令
- 喪葬令
- 捕亡令
- 獄令
- 雑令
※令名称の後ろのカッコ書きは、養老令とは異なっていたと考えられている編目名である。
脚注
出典
- ^ 鐘江宏之『律令国家と万葉びと (全集 日本の歴史 3)』83頁
- ^ 渡辺晃宏 『日本の歴史04 平城京と木簡の世紀』 講談社、2001年、p45より作表。
- ^ 吉村武彦『井上光貞の業績と『令集解』研究』明治大学 日本古代学研究所〈日本古代学研究の世界的拠点形成〉、2019年、35-41頁 。
- ^ 坂上康俊 (1998). “大宝令復原考証三題”. 史淵 (九州大学文学部) 135: 1-17 .
関連項目
外部リンク
大宝律令
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 15:59 UTC 版)
その後の701年に、大宝律令が制定・施行された。大宝律令は、日本史上最初の本格的律令法典であり、これにより日本の律令制が確立することとなった。大宝律令の施行は、当時としても非常に画期的かつ歴史的な一大事業と受け止められている。大宝律令の制定過程で、周礼に準じた正方で中心に宮域の形式で造られた藤原京が、北宮域で長方形の長安を見聞した遣唐使により相違すると指摘され、平城京が、9年の歳月で建設され遷都された。律令編纂に中心的な役割を果たした藤原不比等は、その後、大納言・右大臣へ昇進し平城京遷都にも大きな役割をして、政府の中枢において最大の権力者となり、藤原氏繁栄の基盤を作った。律令制定に伴って、正史日本書紀の編纂、風土記の撰上、度量衡の制定、銭貨の鋳造などが行われた。これらは律令に直接の根拠を持つものではないが、いずれも律令制に不可欠な構成要素であった。 大宝律令は、唐の永徽律令(えいき-、651年制定)をもとに作られた。しかし、唐律令には、日本の社会情勢と適合しない箇所もあったため、多くの箇所で日本の国情に合わせた改変がなされている。大宝律令制定後も、日本の国情に適合させるよう律令の撰修が続けられ、聖武天皇の時代の文化には北魏の影響が強いとされているが、その成果が養老律令としてまとめられ、757年に施行された。 日本の律令制の最盛期は、8世紀初頭から8世紀中期・後期頃までのおよそ100年間とされている。
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