大宝律令以降
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大宝律令(701年)の施行とともに、筑紫大宰(九州)のみが残され政府機関として確立した。それ以外の大宰は廃止された。 「大宰」の文字の初見が609年(推古天皇17年)であるが、既に見たように(宣化天皇元年(536年)の宣化朝の記事のこと)福岡県博多に官家を造るなどの記事から大宰府の起源はもっと遡るのではないかと考えられている。 7世紀に入ると、遣隋使小野妹子が隋の使者裴世清を伴って那津に着いた頃から、官家(みやけ)は、大陸や朝鮮半島からの使者の接待をも担うようになったと考えられる。また、同じ時期に聖徳太子の弟である来目皇子が新羅遠征を名目に九州に駐屯しており、両方の政策に関与していた聖徳太子が一族(上宮王家)を筑紫大宰に任じて、大宰の力を背景に九州各地に部民を設置して支配下に置いていったとする説がある。 筑紫大宰は九州全体の統治と外国使節の送迎などにあたったと考えられ、以後は大宰府に引き継がれていく。 斉明天皇6年(660年)百済が滅亡し、百済復興をかけて天智天皇2年(663年)8月唐・新羅連合軍と対峙した白村江の戦いで大敗した。 天智朝では、唐が倭へ攻め込んでくるのではないかという危惧から天智天皇3年(664年)、筑紫に大きな堤に水を貯えた水城(みずき)・小水城を造ったという。水城は、福岡平野の奥、御笠川に沿って、東西から山地が迫っている山裾の間を塞いだ施設であり、今もその遺跡が残っている。構造は、高さ14メートル、基底部の幅が約37メートルの土塁を造り、延長約1キロにわたる。また、翌年の天智天皇4年(665年)大宰府の北に大野城、南に基肄城などの城堡が建設されたとされた。 大化5年(649年)には「筑紫大宰帥」の記述があるほか、天智天皇から天武天皇にかけての時期にはほかに「筑紫率」「筑紫総領」などが確認でき、中央から王族や貴族が派遣されていた事を示すと考えられている。なお、「総領」の語が大化改新後に登場する言葉であることから、「筑紫総領」を「筑紫大宰」からの改称とみる説、「筑紫大宰」が官司名で「筑紫総領」をそれを率いた官職名とする説、大化改新後に「筑紫大宰」とは別に「筑紫総領」が設置され両者は職掌が分かれていたのが後に統合されて大宰府になったとする説などに分かれている(なお、「大宰」と「総領」両方の設置が確認できるのは、吉備国と筑紫国のみであったことも注目される)。 機関としては、天智天皇6年(667年)に「筑紫都督府」があり、同10年(671年)に初めて「筑紫大宰府」が見える。 この時代は、首都たる大和国(現在の奈良県)、延暦13年(794年)以降は山城国(現在の京都府)で失脚した貴族の左遷先となる事例が多かった。例としては菅原道真や藤原伊周などがいた。また、大宰府に転任した藤原広嗣が、首都から遠ざけられたことを恨んで天平12年(740年)に反乱を起こし、その影響で数年間大宰府は廃止され、その間は大宰府の行政機能は筑前国司が、軍事機能は新たに設置された鎮西府が管轄していた。つまり、天平14年(742年)1月にいったん廃止し、天平15年(743年)12月に筑紫に鎮西府を置く。しかし、天平17年(745年)6月に復活させている。
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