大宝律令以降とは? わかりやすく解説

大宝律令以降

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/30 12:52 UTC 版)

大宰府」の記事における「大宝律令以降」の解説

大宝律令701年)の施行とともに筑紫大宰九州)のみが残され政府機関として確立したそれ以外大宰廃止された。 「大宰」の文字初見609年推古天皇17年)であるが、既に見たように(宣化天皇元年536年)の宣化朝の記事のこと)福岡県博多官家造るなどの記事から大宰府起源はもっと遡るではないか考えられている。 7世紀に入ると、遣隋使小野妹子が隋の使者裴世清伴って那津着いた頃から、官家(みやけ)は、大陸朝鮮半島からの使者接待をも担うようになった考えられるまた、同じ時期聖徳太子の弟である来目皇子新羅遠征名目九州駐屯しており、両方政策関与していた聖徳太子一族上宮王家)を筑紫大宰任じて大宰の力を背景九州各地部民設置して支配下置いていったとする説がある。 筑紫大宰九州全体統治外国使節送迎などにあたった考えられ以後大宰府引き継がれていく。 斉明天皇6年660年百済滅亡し百済復興をかけて天智天皇2年663年8月唐・新羅連合軍対峙した白村江の戦い大敗した天智朝では、唐が倭へ攻め込んでくるのではないかという危惧から天智天皇3年664年)、筑紫大きな堤に貯えた水城(みずき)・小水城を造ったという。水城は、福岡平野の奥、御笠川沿って東西から山地迫っている山裾の間を塞いだ施設であり、今もその遺跡残っている。構造は、高さ14メートル基底部の幅が約37メートル土塁造り延長約1キロにわたる。また、翌年天智天皇4年665年大宰府の北に大野城、南に基肄城などの城堡建設されたとされた。 大化5年649年)には「筑紫大宰帥」の記述があるほか、天智天皇から天武天皇にかけての時期にはほかに「筑紫率」「筑紫総領」などが確認でき、中央から王族貴族派遣されていた事を示すと考えられている。なお、「総領」の語が大化改新後に登場する言葉であることから、「筑紫総領」を「筑紫大宰」からの改称とみる説、「筑紫大宰」が官司名で「筑紫総領」をそれを率いた官職名とする説、大化改新後に「筑紫大宰」とは別に筑紫総領」が設置され両者職掌分かれていたのが後に統合され大宰府になったとする説などに分かれている(なお、「大宰」と「総領両方設置確認できるのは、吉備国筑紫国のみであったことも注目される)。 機関としては、天智天皇6年667年)に「筑紫都督府」があり、同10年671年)に初めて「筑紫大宰府」が見える。 この時代は、首都たる大和国現在の奈良県)、延暦13年794年以降山城国現在の京都府)で失脚した貴族左遷先となる事例多かった。例としては菅原道真藤原伊周などがいた。また、大宰府転任した藤原広嗣が、首都から遠ざけられたことを恨んで天平12年740年)に反乱起こしその影響数年大宰府廃止されその間大宰府行政機能筑前国司が、軍事機能新たに設置され鎮西府管轄していた。つまり、天平14年742年1月にいったん廃止し天平15年743年12月筑紫鎮西府を置く。しかし、天平17年745年6月復活させている。

※この「大宝律令以降」の解説は、「大宰府」の解説の一部です。
「大宝律令以降」を含む「大宰府」の記事については、「大宰府」の概要を参照ください。

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