大宝蔵院ほか所在の仏像とは? わかりやすく解説

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大宝蔵院ほか所在の仏像

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/27 23:24 UTC 版)

法隆寺の仏像」の記事における「大宝蔵院ほか所在の仏像」の解説

大宝蔵院1998年完成した法隆寺寺宝収蔵展示施設で、中央の百済観音堂と東西宝蔵からなる百済観音像のほか、すでに上で解説済み橘夫人念持仏九面観音像、夢違観音像も大宝蔵院収蔵されている。このほか、境内にはよく似た名称の大宝殿がある。大宝殿は1941年開設され寺宝収蔵展示施設で、大宝蔵院開設後春秋期日区切って開館しており、平素非公開寺宝等公開している。 銅造釈迦如来及び脇侍像 重要文化財飛鳥時代628年)。像高釈迦像16.7センチ脇侍像13.6センチ三尊形式で、三尊全体包み込むように蓮弁形の光背配するいわゆる一光三尊像の作例。ただし、右脇侍像(向かって左)は失われている。小像ながら、作風全体の構成服制などは止利仏師作の金堂釈迦三尊像似ている。小像のため、中尊螺髪植付けではなくタガネ格子状の線を刻んで表す。左脇侍像は頭部両肩部を除いて背面造形省略している。失われた脇侍像のあったところには、光背に像を取り付けるための枘穴が左右に2つ並んでいる。一方現存する脇侍像の背面の枘は、左右に並ぶのではなく後頭部と体部に1つずつ設けられており、型式異なっている。このことから、左脇侍像は本来の一具ではないとする説もあるが、一方で釈迦像と左脇侍像の作風似通っていることから、やはり本来の一具だとする説もある。光背には以下の4行48字の銘文がある。 戊子十二月十五日朝風文 将其濟師慧燈為嗽加大臣 誓願敬造釈迦佛像以此願力 七世四恩六道四生倶成正覺読み戊子十二月十五日、朝風文将〔「文将其」とも〕、其れ濟師慧燈をして〔「濟師慧燈」とも〕、嗽加大臣為に誓願して、釈迦仏像を敬造せしめたまふ。此の願力を以て、七世の四恩六道四生、倶(とも)に正覚を成さむことを。 この銘文固有名詞部分難読であるが、西暦628年に嗽加大臣蘇我大臣)のために作られ釈迦像であることがわかる。蘇我馬子三回忌に際して作られた像と推定されている。 銅造薬師如来坐像 重要文化財奈良時代像高15.4センチ。もと西円堂本尊薬師如来像胎内仏であった伝えるが、確証はない。台座蓮華座の上裳裾広げた裳懸座で、光背は後補である。面相童子思わせるもので、飛鳥時代後期白鳳期)の仏像につながるものがある。しかし、台座裳裾の布が、その下の蓮弁凹凸にしたがって上下する表現盛唐風であり、本像が盛唐影響受けた奈良時代の作であることを示している。光背とそれを支え支柱は、本来この像に属したものではなく、他像分の転用思われる光背は本像のものとしては大きすぎ、様式的にも釣り合わない銅造観音菩薩立像(旧金堂阿弥陀如来像脇侍重要文化財奈良時代像高61.5センチ。もと金堂「西の間」阿弥陀如来像鎌倉時代作)の右脇侍像として安置されていた像だが、阿弥陀像および左脇侍像とは全く別の奈良時代の像である(金堂「西の間」の本来の右脇侍像は、明治期海外流出しパリギメ美術館所蔵となっている)。右腕軽く曲げて水瓶執り左腕前方突き出して第一指と第三指で玉を持つ。宝冠天衣などのデザイン装飾的ななかにも自然さを失わないものとなっている。衣端が台座上に垂れかかる様も自然に表されている。 銅造観音菩薩立像 2躯(旧金堂薬師如来像脇侍重要文化財像高54.1センチ(伝・日光菩薩)及び54.5センチ(伝・月光菩薩)。もと金堂「東の間」薬師如来像両脇侍として安置され、「日光菩薩・月光菩薩」と呼ばれていた像だが、薬師像とは作風異なり、本来の一具ではない。また、両像とも頭上正面阿弥陀如来化仏観音標識)があることから、本来の像名は観音菩薩である(観音菩薩は、如来脇侍として安置される場合薬師如来ではなく阿弥陀如来に随侍する)。両像とも三面頭飾を付け瓔珞にぎやかに身にまとう。伝・日光菩薩と伝・月光菩薩とは、右手下げ左手上げポーズ含め一見するとまったく2体同形見えるが、台座蓮弁形状をはじめ、各所相違点がある。頭上阿弥陀化仏は、伝・日光では坐像に、伝・月光では立像に表す。伝・月光は、瞼を二重に表す。瓔珞などにタガネ連珠文や複連点文を表すのは両像共通だが、裳の折返しなどに表される九曜文を半截にしたような文様と、腹部表され蛇行曲線は伝・月光のみに見られる。なお、金堂西の間の阿弥陀三尊脇侍像は、本像を模して鎌倉時代作られたものである銅造観音菩薩立像 重要文化財像高56.7センチいわゆる「止利式」仏像典型的な作品大ぶり宝冠いただき両手胸前合わせ宝珠捧持する宝冠には日輪三日月組み合わせたサーサーン朝風の意匠を表す。左右対称形に図式的に表現され垂髪天衣などは止利式の特色で、金堂釈迦三尊脇侍像と類似する点が多い。ただし、金堂脇侍像が背面空洞であるのに対し、本像は背面省略せず造形している。内部頭部内面まで空洞とする(製作時には頭部内面まで中型土が詰まっていた)が、これも止利派の金銅仏特色である。 銅造観音菩薩立像 重要文化財奈良時代像高25.4センチ右手垂下し水瓶執り左腕前方突き出して4・5指を曲げる。半円状突き出した両眼のつくり、下半身図式的な衣文など、独特の表現みられる。胸の部分乳房の隆起意味するとみられる表現のあるのも珍しい。 銅造観音菩薩立像 重要文化財奈良時代像高21.5センチ右手前方突きだし、掌を正面に向ける。左腕は肘を軽く曲げて垂下し拳を握る天衣や裳の縁、台座蓮肉や反花の縁などにタガネで複連点文を刻む。 以上の観音像3躯は、1902年明治35年)に「金銅誕生釈迦仏立像一、金銅観世音菩薩立像五」の6躯一括重要文化財当時旧国宝)に指定されたものである誕生釈迦仏観音像のうち2躯は指定翌年盗難遭い所在不明で、寺に残るのは観音像3躯のみ。所在不明の3躯の写真は『国宝・重要文化財大全』(毎日新聞社)に収録されている。 木造観音勢至菩薩立像(伝・六観音のうち) 重要文化財飛鳥時代後期白鳳期)。像高観音86.9センチ勢至86.0センチ木造文殊普賢菩薩立像(伝・六観音のうち) 重要文化財飛鳥時代後期白鳳期)。像高文殊85.7センチ普賢83.9センチ木造日光月光菩薩立像(伝・六観音のうち) 重要文化財飛鳥時代後期白鳳期)。像高日光80.3センチ月光77.9センチ。 以上の3組6躯の菩薩像は、かつては金堂釈迦三尊像の下に2躯、金堂阿弥陀三尊像の下に2躯、食堂薬師如来像の下に2躯がそれぞれ安置されていた。これら6躯は作風技法像高などに共通点多くあわせて六観音」と称されている。ただし、「六観音」はあくまでも通称で、実際に観音以外の像も含まれており、真言宗天台宗などで信仰される本来の「六観音」とは関係がない。本来、観音勢至菩薩阿弥陀如来に随侍する菩薩であり、同様に文殊普賢菩薩釈迦如来に、日光・月光がっこう菩薩薬師如来に随侍する菩薩である。6躯のうち、図像特色から像名を確定できるのは観音菩薩像勢至菩薩像のみである(観音頭上阿弥陀の小像を表し勢至頭上水瓶を表すのがその特色)。他の4躯については本来の像名は不明であり、釈迦如来像の下にあったものを文殊普賢菩薩薬師如来像の下にあったものを日光・月光菩薩と仮に呼んでいるにすぎないいずれの像もクスノキ材で、両手先などに別材を矧ぐほかは一木から彫成し内刳行わない。像表面漆箔仕上げで、木彫像であるが金銅仏のような作風を示す。各像は作風から天武持統朝頃(680年頃)の制作とみられる。眉から眼までの間が広く童子のような表情と体形に表すのは飛鳥時代後期白鳳期)の仏像特色である。上半身には条帛を着けない。天衣扱いは像によって異なる。観音像普賢像の天衣両肩から両腕内側まっすぐに垂下するが、勢至像、文殊像の天衣両肩から垂下したものが下半身正面でX字状に交差したあと、両腕掛かり、そこから体の外側垂れている。日光像、月光像の天衣勢至像、文殊像のそれに似る。ただし、像の背面を見ると、勢至像、文殊像の天衣両肩から背中長く垂れ下がってU字状を呈するのに対し日光像、月光像のそれは両肩とどまっている。6躯のうち、日光・月光一対は他の4躯に比して保存状態が悪い。他の4躯は頭髪部に木屎漆盛り上げて毛筋刻んでいるが、日光・月光像では盛上げ木屎漆剥落してしまっている。日光・月光像ともに両手先は後補、足元から台座にかけて大幅な補修がされており、体側垂れ天衣日光像の右腕から垂れる分を除いて後補である。観音勢至文殊普賢の4像が裳裾短く表し足首露出させているのに対し日光・月光像の裳裾台座上面達し足首見えていない。ただし、前述のように日光・月光像の足元部分には大幅な補修入っており、現状当初からの形式であるかどうか不明である。『金堂日記』という記録建久7年1196年)条に、「橘寺本仏八躰」(「木仏八躰」の誤記か)とあるのが、この六観音像に当たり、もとは橘寺にあったもので、本来は8躯存在したとする説もある。なお、東京根津美術館には、法隆寺六観音のうちの月光菩薩像とよく似た菩薩像収蔵されており、上記の「木仏八躰」の1躯だった可能性指摘されている。ただし、根津美術館像は補修多く伝来不明である。アメリカフリア美術館にも類似の菩薩像があるが、大幅に改修されており、古像に似せて作った擬古作とする説もある。 乾漆弥勒菩薩坐像 重要文化財奈良時代像高62.4センチ一木造内刳ほどこした木心に木屎漆盛り上げて成形した木心乾漆像。毛筋瓔珞、腕釧などは盛上げで表す。両腕前方突出し右手の掌を上に、左手の掌を正面向けている。ただし、両手先は後補で、当初からこの形であったかどうか不明であり、弥勒という像名も本来のものかどうかわからないシカゴ美術館類似の像がある。 塑造梵天・帝釈天立像 重要文化財奈良時代像高梵天110.2センチ帝釈天109.5センチ。もとは食堂じきどう)の本尊薬師如来像左右に安置されていた。頭体通じて一木クスノキ材をとして塑土で成形する白土地に彩色を施すが、大部分剥落している。両像とも甲(よろい)の上法衣を着、裳を着け、沓をはく。帝釈天像の沓の部分では、塑土が剥落して中の木心が露出しており、その木心に足の指が刻まれているのが見える。このことから、本像の木心が、完成後には見えなくなる部分まで入念に作られていることがわかる。プロポーション頭部小さく、腰を軽くひねり、大腿部量感強調した造形盛唐影響うかがわせる塑造四天王立像 重要文化財奈良時代像高持国天91.4センチ増長天92.7センチ広目天95.1センチ多聞天91.8センチ前出梵天帝釈天とともに、もとは食堂本尊薬師如来像周囲守っていた四天王像心木は頭体通じて一木クスノキ材で、塑土の層は薄い。白土地に彩色を施すが、大部分剥落している。保存状態は同じ食堂梵天帝釈天像よりは悪く、塑土の欠失が目立つ。須弥壇前方を守る2躯(持国天増長天)のみが冑(かぶと)をかぶるなど、群像としての変化付けているが、後世四天王像比して動き少ない。 塑造吉祥天立像 重要文化財奈良時代像高168.3センチ。もと食堂じきどうにあった像で、破損がひどく、本来の像名が不明で、「菩薩像」と呼ばれていた。1935年修理が行われ、吉祥天像として重要文化財指定されている。奈良時代天平期の作であるが、像表面はほとんど補修されている。両手は後補である。昭和期には金堂北面安置されていたが、大宝蔵院開館してからはそちらに移されている。 木造光背 重要文化財奈良時代。高さ110.0センチ法隆寺には奈良時代作の光背残欠3点伝わるが、そのうちもっとも保存状態のよいもの。光背のみで重要文化財指定されているが、枘穴の状況からみて、もとは伝法堂東の間の阿弥陀如来像光背であったものと推定される頭光部と身光からなりいずれも中心円形周囲二重の圏帯をめぐらし宝相華文透彫で表す。 金銅僧徳聡等造像記 重要文化財飛鳥時代長さ23.1センチ(枘を含み35.5センチ)。甲午年(694年)に作られ観音像造像記である。像本体失われている。縦長銅板の上下に枘が作られているが、仏像のどの部分取り付けられいたものかは不明である(光背一部であったともいう)。銅板の表には造像由来が3行に書かれ、それによれば甲午年に大寺の徳聡法師片岡王寺の令弁法師飛鳥寺の弁聡法師父母のために観世音菩薩像作ったという。銅板の裏面には法師らの出自記されており、それによると、彼らは百済王族で、日本では「王」姓を名乗ったという。銘文中の「いかるが大寺」は法隆寺を指す。この造像記作られ694年は、持統天皇法隆寺仁王会のために仏具類を施入した持統7年693年)の翌年にあたり670年焼失した法隆寺が、20数年後には「大寺」と呼ばれるほどに復興していたことを示唆するまた、造像記中には飛鳥寺の名も見え当時法隆寺飛鳥寺の僧の間に交流があったこともわかる。 厨子入銅板押出阿弥陀三尊及僧形像銅板押出如来及両脇侍立像(板扉貼付)・銅板舟形後屏銅板押出天蓋付) 重要文化財奈良時代飛鳥・奈良時代盛んに制作された、いわゆる押出仏」の遺品である。押出仏とは、浮彫原型の上に薄い銅板当て、鎚やノミ叩いて像の形を浮き出させるもので、同じ原型から複数の像を作ることができる。鎚鍱像(ついちょうぞう)ともいう。「厨子入銅板押出阿弥陀三尊及僧形像」は、厨子の高さ64.8センチ押出仏の高さ39.0センチ。この種の押出仏厨子収められ礼拝像として用いられたことを示す実例である。説法印結んで坐す阿弥陀如来像左右に観音勢至菩薩像が立ち、如来脇侍の間には各1体僧形像が立つ。もとは鍍金されていた。これらの像の上部にある天蓋は、一時期寺外に流出して民間所蔵となっていたものが寺に返還されたものである東京国立博物館法隆寺献納宝物には、本作と同じ原型から制作され押出仏3点ある。黒漆塗の厨子押出仏用に作られ奥行の浅いもので、上部屋根形に作り垂木の形を表す。観音開きの扉を付け、扉内面には金剛力士のような像を描く。「銅板押出如来及両脇侍立像(板扉貼付)」は高さ24.0センチ。3体とも立像表され三尊の上部に天蓋を表す。その上部にはそれぞれ小天有する3体の化仏を表す。「銅板舟形後屏銅板押出天蓋付)」は、高さ57.4センチ。もと押出仏貼り付けていた銅板で、現状では押出仏本体失われて、天蓋のみが残っている。左右2枚銅板を鋲留めとし、全体蓮弁形に作る東京国立博物館保管法隆寺献納宝物198号の押出仏は、釘穴の跡が一致することから、もとはこの銅板一具であったことがわかる。銅板の裏面には線刻竹林比丘獅子力士を表す。 塼製阿弥陀如来及脇侍像 重要文化財奈良時代。高さ44.5センチ塼仏せんぶつ)は、粘土凹型詰めて型取り焼いたもので、奈良時代盛んに制作された。本作説法印を結ぶ倚像腰かけた像)の阿弥陀如来像左右に観音勢至菩薩像が立ち、如来脇侍の間には各1体僧形像が立つ。 厨子入木造聖徳太子坐像 重要文化財平安時代像高57.9センチ礼拝対象としての聖徳太子像には二歳像、十六歳像などがあるが、本像は童子形に表された七歳像である。治暦5年1069年)、仏師円快の作で、彩色秦致貞はたのちてい / はたのむねさだ)が担当している。秦致貞はもと東院絵殿にあった聖徳太子絵伝」(国宝東京国立博物館)として知られる。像は頭体主要部ヒノキの一材から木取りし、前後矧ぎとする。頭髪左右に分けて角髪(みずら)を結い、袍と裳を着用して坐す左手には団扇持ち右手は掌を伏せて膝上に置く。像を納める厨子は高さ119.0センチ礼盤状の台座に4本の立てて屋根け、四方吹き放しにした輦(れん)状のものであるかつては聖霊会しょうりょうえ聖徳太子忌日法要)の際に、本像と太子感得舎利とが東院から西院大講堂渡御した。 木造如意輪観音坐像 重要文化財。唐時代像高17.9センチ。六臂の如意輪観音像で、赤みがかった広葉樹材の一材から本体蓮肉木取りする。彩色は施さず、素地仕上げ截金文様を表す。本像は、高雄曼荼羅京都神護寺の、空海将来本系統を引く両界曼荼羅)中の如意輪観音図像的に共通することが指摘され、その作風から見て日本製ではなく8世紀9世紀頃の中国製とみられる台座銘文によれば、本像は聖徳太子家臣調子丸の子孫に伝わったのである正嘉2年1258年叡尊願主となり、截金持物光背台座天蓋整備した木造聖観音立像 重要文化財奈良時代像高181.5センチ。もとは金堂安置されていた。台座蓮肉含めヒノキ材の一木造内刳はない。彩色大部分剥落している。右腕垂下し左腕は肘を曲げ水瓶を持つ。ただし、左手先と水瓶は後補。光背は板3枚継いだもので、本像用のものとしてはやや大きく、他像分の転用可能性もある。『奈良六大大観 法隆寺四』(1971年)は本像を平安時代10世紀頃の作としていたが、2001年刊行補訂版ではその後の調査結果ふまえて奈良時代後期の作としている。後世菩薩像では頭髪一部が耳の中ほど掛かる表現多くみられるが、本像にはそれがなく、古風な表現になっているまた、平安時代彩色の下に銀泥による文様部分的に残存しており、これは奈良時代のものとみられる木造聖観音立像 重要文化財平安時代像高165.2センチ。もとは金堂安置されていた。ヒノキ材の一木造内刳はない。両肩から先に別材を矧ぎ右腕全体左手先を後補とする。表面漆箔仕上げとするが、ほぼ剥落している。11世紀初頭から半ば頃の制作木造普賢延命菩薩坐像 重要文化財平安時代像高91.8センチ。もとは金堂安置されていた。20臂を有する密教系の菩薩像である。クスノキ材の一木造内刳をほどこす。両脚部、両肩から先などに別材を矧ぐ彩色大部分剥落している。脇手手首ないし前膊部を後補とするものが多い。持物のすべてと方形台座も後補。材の光背当初のもので、剥落が多いが当初彩色残している。 木造千手観音立像 重要文化財平安時代像高97.5センチサクラの一材から頭体主要部木取りし、内刳を行う。千手観音像は42臂で千手を代表させるものが多く、本像も42臂像であったが、脇手のほとんどが失われている。両足先や表面漆箔は後補である。作風天平時代風がうかがえるが、全体彫り荒く10から11世紀の作とみられる木造薬師如来坐像 重要文化財平安時代像高86.5センチヒノキ材の一木造内刳行い表面漆箔仕上げとする。頭体は一材から木取りするが、頭部は割首(いったん割り放してから再接合)とする。両脚部は別材を矧ぎ左腕は肘、手首で、右腕は肩、肘、手首で、それぞれ矧ぐ両手先は後補。台座蓮肉部のみは当初のものだが、それ以外は後補か他像分の転用とみられる平安時代後期の作。 木造釈迦如来坐像 重要文化財平安時代像高85.8センチヒノキ材で、内刳行い表面漆箔仕上げとする。頭体は一材から木取りするが、前後に割矧ぎ頭部も割首とする。両脚部は別材を矧ぎ左腕は肘で、右腕は肩、肘、手首で、それぞれ矧ぐ。腹前で法界定印ほっかいじょういん左手を下、右手を上にして組み両手親指接する)を結ぶが、両手先は後補である。像内に阿弥陀如来種子梵字)があり、本来は阿弥陀如来像として造立されたとみられる台座は細かい花文があり、ほぼ当初のものとみられる平安時代後期11世紀末頃の作。 木造阿閦如来坐像 重要文化財平安時代像高87.0センチヒノキ材で、内刳行い表面漆箔仕上げとする。頭体主要部を一材から木取りするが、前後に割矧ぎ頭部は割首とする。表面漆箔仕上げ両脚部は別材を矧ぎ両腕それぞれ肘、手首矧ぐ左手で衣の端をにぎる。像内に「キリーク」(阿弥陀如来種子)の墨書があり、本来は阿弥陀如来像として造立されたとみられる台座蓮肉部のみが当初のもので、他は後補および他像分の転用とみられる平安時代後期12世紀半ば頃の作。 木造阿弥陀如来坐像 重要文化財鎌倉時代像高91.8センチヒノキ材の寄木造前後二材矧ぎ)、頭部は割首とする。表面漆箔仕上げ両脚部は別材を矧ぎ右腕は肩、肘、手首で、左腕は肩で、それぞれ矧ぐ左手先と右手3・4・5指は後補。台座大部分大正2年1913年)の補作で、それ以外部分も他像分の転用とみられる上述薬師如来像釈迦如来像阿閦如来とともにもと伝法にあった像。面相体部肉付けなどの特色から、制作時期は他像よりやや遅れて鎌倉時代初期とみられる木造阿弥陀如来坐像 重要文化財平安時代像高107.8センチ転法輪印両手胸前構える)を結ぶ阿弥陀如来像東京国立博物館寄託。『奈良六大大観 法隆寺四』によれば同書発刊時点1971年)では東院絵殿北裏小室安置されていた。ヒノキ材の寄木造で、前後および正中それぞれ材を矧ぐ両脚部は別材を矧ぎ左腕は肘で、右腕は肩、肘、手首で、それぞれ矧ぐ表面漆箔は後補だが、像自体保存はよい。光背周縁部を欠くが二重円相と光脚は当初のもの。十重蓮華座大部分当初のものである平安時代末期の作とみられる。像内には阿弥陀種子梵字)や真言などの当初墨書があるが、作者造立年代記載はない。 木造弥勒菩薩半跏像 重要文化財像高97.0センチヒノキ材の一木造内刳行わない彩色はほとんど剥落している。左手宝塔乗せた蓮華持ち(ただし持物は後補)、左脚を踏み下げて坐す両前膊の半ばから先、大腿部半ばから先、踏み下げた左脚は江戸時代の後補。光背台座明治38年1905年)の補作である(台座修理銘による)。もと金堂に安置され、さらに以前には三経院にあって唯識講本尊とされていた像である。 木造天鼓音如来坐像 重要文化財像高80.0センチヒノキ材の一木造で、内刳はない。表面彩色仕上げとする。両脚部は別材を矧ぎ左腕は肘、手首で、右腕は肘でそれぞれ矧ぐ左手先と右前膊は後補。右手五指伸ばして膝上に置き、左手握って膝上に置く。天鼓如来呼ばれているが、前述のように両手先が後補であるため当初印相不明であり、本来の像名も不明である。平安時代中期10世紀半ば頃の作。 木造阿弥陀如来坐像 重要文化財平安時代像高34.2センチ転法輪印両手胸前構える)を結ぶ阿弥陀如来像。もとは夢殿東面安置されていた。一木造樹種不明)で漆箔仕上げとする。台座蓮弁を後補する当初のもの。光背近世補作である。平安時代末期の作とみられる木造弥勒菩薩坐像 重要文化財平安時代像高94.0センチケヤキ材の一木造で、内刳を行う。表面彩色仕上げとするがほとんど剥落する。両脚部は別材を矧ぎ両腕それぞれ肩、肘、手首で、右腕は肘でそれぞれ矧ぐ左手の第2・3指は後補。平安時代後期11世紀半ば頃の作。台座はほぼ同時代の他像(2像分)からの転用とみられる木造善女竜王立像 重要文化財鎌倉時代像高20.0センチ。もと夢殿救世観音像安置する厨子にあったもの。高野山金剛峯寺にある善女竜王画像は、中国官人風に表されているが、本像は図像的にまったく異なるもので、老相の神将形の像である。亀の背に乗り、体には竜が巻き付いている。像は黒漆塗の春日厨子収められており、厨子内面には八大竜王を描く。 金銅釈迦如来立像 重要文化財所在不明。 以下に、「彫刻」として重要文化財指定されている仮面類について略説する木造伎楽面1面 重要文化財奈良時代法隆寺伝来伎楽面のうち31面は1878年当時皇室献納され、現在は東京国立博物館法隆寺宝物館保管されている。法隆寺側に残ったのは1面だけで、桐材製。老相で三角帽子をかぶるところから面種は「大孤父」とみられる法隆寺宝物館伎楽面クスノキ材製19面、桐材製9面、乾漆3面があり、クスノキ材製は飛鳥時代、他は奈良時代の作とされる木造舞楽面35面(附2面重要文化財平安及び鎌倉時代内訳胡徳楽ことくらく)7、地久ちきゅう)7、退宿徳たいしょうとく)2、石川せっせん)1、抜頭(ばとう)1、還城楽げんじょうらく)1、二ノ舞2、新鳥蘇しんとりそ)5、皇仁庭(おうにんてい)2、崑崙八仙ころばせ)4、陵王1、納曽利(なそり)2。附(つけたり)の2面散手崑崙八仙である。胡徳楽面のうち古いものは9 - 10世紀さかのぼる。石川せっせん)は鎌倉時代には絶えた演目で、法隆寺作品石川面の現存唯一の遺品である。抜頭還城楽一対作品でともに天養元年1144年)の年記がある。附指定2面室町時代の作。 木造行道面10面(附1片) 重要文化財平安時代聖徳太子忌日法要である聖霊会しょうりょうえ)で用いられ仮面保延4年1138年)の聖霊会使用されたもので、各面に同年の銘がある。内訳獅子頭2、綱引1、払1、八部衆6で、八部衆残欠1片が附(つけたり指定となっている。行道先頭を行く獅子、その綱を引く綱引と随侍する払、聖徳太子像乗せた輦(れん)をかつぐ八部衆からなる木造菩薩面3面(附5面重要文化財平安時代来迎会らいごうえ)所用の面で、3面とも平安時代末期の作であり、うち1面康和4年1102年仏師善祐の銘がある。 木造追儺面3面 重要文化財鎌倉時代。西円堂追儺会(ついなえ)で用いられた面で、父鬼、母鬼、子鬼3面。西円堂追儺会は弘長元年1261年)に始められたもので、これらの面はその当時13世紀)にさかのぼる面とみられる

※この「大宝蔵院ほか所在の仏像」の解説は、「法隆寺の仏像」の解説の一部です。
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