国宝・重要文化財
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/02 15:52 UTC 版)
2006年に建築物7棟、貯水槽(鉄水溜)1基、排水溝(下水竇及び外竇)1所が「旧富岡製糸場」の名称で一括して重要文化財に指定された。また、重要文化財「旧富岡製糸場」の一部(繰糸所、東・西置繭所の3棟)が2014年に国宝に指定されている。 重要文化財「旧富岡製糸場」として指定された建造物は以下のとおりである。太字は重要文化財指定時の官報告示に基づく建造物名(読み方は文化庁の国指定文化財等データベースによる)で、一部には現在名を細字で併記した。 繰糸所(そうしじょ、国宝)あるいは繰糸工場は、富岡製糸場の中で中心的な建物である。敷地中央南寄りに位置する、東西棟の細長い建物で、木骨レンガ造、平屋建、桟瓦葺き。平面規模は桁行140.4メートル、梁間12.3メートルである。東端に玄関を設ける。小屋組は木造のキングポストトラスである。繰糸は手許を明るくする必要性があったことから、フランスから輸入した大きなガラス窓によって採光がなされている。この巨大な作業場に300釜のフランス式繰糸器が設置された。富岡製糸場に導入された器械製糸は、それ以前の揚げ返しを含まない西洋器械をそのまま導入していた事例と異なっており、1873年から1879年の間に実に全国26の製糸工場に導入された。操業されていた器械(機械)は時代ごとに移り変わったが、巨大な建物自体は増築などの必要性が無く、創建当初の姿が残された。なお、ブリューナが導入した操業当初の器械を含む過去の器械類については、片倉工業が岡谷市の市立岡谷蚕糸博物館に寄贈したことから、そちらに保存されている。 東置繭所(ひがしおきまゆじょ、国宝)と西置繭所(にしおきまゆじょ、国宝)あるいは東繭倉庫と西繭倉庫は、繰糸所の北側に建つ、南北棟の細長い建物であり、東置繭所、繰糸所、西置繭所の3棟が「コ」の字をなすように配置されている。東西置繭所ともに1872年の竣工で、桁行104.4メートル、梁間12.3メートル、木骨レンガ造2階建てで、屋根は切妻造、桟瓦葺きとする。その名の通り、主に2階部分が繭置き場に使われた。両建物とも規模形式はほぼ等しいが、東置繭所は南面と西面に、西置繭所は南面と東面に、それぞれベランダを設ける。また、東置繭所は正門と向き合う位置に建物内を貫通する通路を設けている。この通路上のアーチの要石には「明治五年」の刻銘がある。開業当初の繭は養蚕が主に春蚕のみを対象としていたため、春蚕の繭を蓄えておく必要から建設され、2棟合わせて約32トンの繭を収容できたとされている。2階部分が倉庫とされたのは、風通しなどへの配慮もあった。東置繭所の1階部分は当初事務所などに、西置繭所の1階部分は燃料となる石炭置き場に、それぞれ活用されていたが、のちにはどちらも物置などに転用され、建造当初に存在していた間仕切りなどはなくなっている。西置繭所は2015年より5年計画の保存修理工事が行われ、工事の間は素屋根(覆屋)で囲われるが、一角に見学施設が設けられ工事の現場を見ることができる。 蒸気釜所(じょうきかましょ。1872年竣工、重要文化財)は、繰糸所のすぐ北に建つ。南北棟、木骨レンガ造、桟瓦葺きの部分と東西棟、木造、鉄板葺きの部分に分かれ、前者は蒸気釜所の一部が残ったもの、後者は汽罐室の2スパン分が残ったものである。製糸場の動力を司り、一部は煮繭に使われた。ブリューナが導入した単気筒式の蒸気エンジンはブリューナ・エンジンと呼ばれ、今は片倉工業の寄贈によって博物館明治村(愛知県犬山市)で展示されている。1920年に動力が電化されるとブリューナ・エンジンは使われなくなり、のちには煮繭所などに転用された。現在名は煮繭場・選繭場である。蒸気釜所の西には、操業当初に立っていたフランス製鉄製煙突の基部が残されており、蒸気釜所の「附」(つけたり)として重要文化財に指定されている(指定名称は「烟筒基部 1基」)。当初の煙突は周囲への衛生上の配慮から高さ36メートルを備えていたが、1884年(明治17年)9月26日に暴風で倒れてしまったため、現存しない。なお、現在の富岡製糸場に残る高さ37.5 mの煙突はコンクリート製で、1939年に建造されたものである。 鉄水溜(てっすいりゅう。1875年竣工、重要文化財)あるいは鉄水槽は、蒸気釜所の西側にある鉄製の桶状の工作物。鉄板をリベット接合して形成したもので、径15メートル、深さ2.4メートルであり、石積の基礎を有する。創建当初のレンガにモルタルを塗った貯水槽が水漏れによって使えなくなったことを受け、横浜製造所に作らせた鉄製の貯水槽で、その貯水量は約400トンに達する。鉄製の国産構造物としては現存最古とも言われる。 逆に排水を担ったのが下水竇及び外竇(げすいとうおよびがいとう、重要文化財)あるいは煉瓦積排水溝で、いずれも1872年にレンガを主体として築かれた暗渠である。西洋の建築様式を取り入れた下水道は、当時はまだ開港地以外で見られることは稀であり、これらの遺構もまた建築上の価値を有している。下水竇は繰糸所の北側にあり、建物に並行して東西に通じ、延長は186メートル。外竇は下水竇の東端から90度折れ、敷地外の道路に沿って南方向に伸びるもので、延長135メートル。排水は鏑川に注がれた。 首長館(しゅちょうかん。1873年竣工、重要文化財)あるいはブリューナ館(ブリュナ館)は、繰糸所の東南に位置する。木骨レンガ造、平屋建、寄棟造、桟瓦葺き。平面はL字形を呈し、東西33メートル、南北32.5メートルである。内部は後の用途変更のため改変されている。別名が示すようにブリューナ一家が滞在するために建設された建物である。もっとも、この建物は面積916.8平方メートルと広く、一家(夫婦と子ども2人)とメイドだけでなく、フランス人教婦たちも女工館(後述)ではなく、こちらで暮らしたのではないかという推測もある。その広さゆえに、1879年にブリューナが帰国すると、工女向けの教育施設などに転用され、戦後には片倉富岡学園の校舎としても使われた。従来、工女教育のために竣工当初の姿が改変されたことは肯定的に捉えられてこなかったが、むしろ富岡製糸場の女子教育の歴史を伝える産業遺産として、その意義を積極的に捉えようとする見解もある。 女工館(じょこうかん、重要文化財)あるいは2号館は首長館と同じく1873年の竣工で、東置繭所の東側、南寄りに位置する。木骨レンガ造、2階建、東西棟の寄棟造で、桟瓦葺きとする。規模は東西20.1メートル、南北17.4メートルである。この建物は、ブリューナがフランスから連れてきた教婦(女性技術指導者)たちのために建てられたものであった。しかし、4人の教婦のうち、マリー・シャレー(Marie Charet / Charay, 19歳)は病気のために1873年10月23日に富岡を離れ、同28日に横浜から帰国した。次いでクロランド・ヴィエルフォール(Clorinde Vielfaure, 年齢不詳)とルイーズ・モニエ(Louise Monier / Maunier, 27歳)も病気に罹り、1874年3月11日に富岡を発った。残るアレクサンドリーヌ・ヴァラン(Alexandrine Vallent, 25歳)は健康ではあったが、一人だけ取り残されることを良しとせず、同じ日に富岡を発った。こうして、4年の任期を誰一人まっとうできずに帰国してしまったため、女工館は竣工まもなく空き家となった(前述のように、そもそも短期間さえフランス人が暮らしていなかった可能性もある)。その後、三井時代には役員の宿舎、原時代には工女たちの食堂など、時代ごとに様々な用途に転用された。 検査人館(けんさにんかん、重要文化財)あるいは3号館は1873年竣工で、東置繭所の東側、女工館の北に建つ。木骨レンガ造、2階建、南北棟の寄棟造で、桟瓦葺きとする。規模は東西10.9メートル、南北18.8メートルである。もともとはブリューナがフランスから連れてきた男性技術指導者たちの宿舎として建てられたものであったが、検査人ジュスタン・ベラン(Justin Bellen, 29歳)とポール・エドガール・プラー(Paul Edgar Prat, 23歳)は、無許可で横浜に出かけ、怠業したという理由で1873年10月30日に解雇されていた。また、ブリューナが教婦や検査人を連れて来たのとは別の時期(詳細日程未詳)に来日し、1872年に雇い入れられた銅工のジュール・シャトロン(Jules Chatron, 27歳)も、1873年11月20日には富岡を離れていた。このため、かわりに外国人医師の宿舎になっていたようである。正門近くにあり、現在は事務所になっている。首長館、女工館、検査人館はいずれもコロニアル様式の洋風住宅と規定されている。なお、1881年の記録には第4号官舎、第5号官舎の名前も見られるが、いずれも現在は失われている。 上記のほか、正門脇で出入りする人々をチェックしていた候門所(こうもんじょ)が、重要文化財「旧富岡製糸場」の「附」(つけたり)として指定されている。この建物は、開業当初の建物の中では珍しい木造平屋建てで、1943年の行啓記念碑(後述)建設にあたって移転した。のちに社宅に転用された。 検査人館内部 鉄水溜 首長館 西置繭所 保存修理仮設見学施設
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国宝・重要文化財
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国宝(建造物) 瑞龍寺(仏殿、法堂、山門) 重要文化財(建造物) 瑞龍寺(総門、禅堂、大茶堂、高廊下、北回廊、南東回廊、南西回廊) 気多神社(本殿) 武田家住宅 佐伯家住宅 勝興寺(本堂、経堂、御霊屋、鼓堂、宝蔵、総門、唐門、式台門、大広間および式台、台所、書院および奥書院、御内仏) 菅野家住宅(主屋、土蔵) 重要文化財(絵画) 紙本金地著色洛中洛外図六曲屏風(勝興寺所有) 紙本著色一塔両尊像、紙本著色日蓮像、紙本著色鬼子母神十羅刹女像、絹本著色三十番神像(大法寺所有) 重要文化財(彫刻) 木造千手観音坐像(総持寺所有) 木造男神坐像(二上射水神社所有) 重要文化財(工芸品) 銅錫杖頭(双竜飾)(個人蔵、東京国立博物館に寄託) ※高岡市の個人所蔵であった重要文化財刀剣8件は県外移動または所在不明となっている。 重要文化財(書跡・典籍) 紙本墨書後陽成院宸翰御消息(瑞龍寺所有)
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国宝・重要文化財
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国宝 『花下遊楽図屏風』(狩野長信筆) - 6曲1双 紙本着色 安土桃山~江戸時代・17世紀 東京国立博物館蔵 国宝 障壁画『桜図』(長谷川久蔵画) - 長谷川久蔵は等伯の息子。智積院蔵 など
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