国宝・二の丸御殿の経緯や建築についてとは? わかりやすく解説

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国宝・二の丸御殿の経緯や建築について

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 08:42 UTC 版)

二条城」の記事における「国宝・二の丸御殿の経緯や建築について」の解説

徳川家康二条城造営着手したのは慶長6年1601年)であるが、現存する二の丸御殿建物群はその20数年後寛永期に大改修されたものである後水尾天皇二条城行幸備えて寛永元年1624年)から御殿大改修始まり、同3年1626年)に完成した二の丸御殿寛永期に新築に近い改修受けていることは川上貢らの調査判明しており、建物内障壁画についても寛永期の作であることが土居次義武田恒夫らの研究明らかになっている。 御殿正門である唐門を入ると、正面遠侍及び車寄があり、以下、式台大広間蘇鉄の間、黒書院白書院の各建物南東から北西雁行形に配置される。各建物入側渡廊下連結されている。遠侍及び車寄式台大広間蘇鉄の間、黒書院白書院の6棟が国宝指定され遠侍及び車寄は1棟に数える)、これらの建物の各室の床(とこ)、床脇)、帳台構、襖、障子腰、長押上壁などには狩野探幽狩野派絵師による障壁画描かれている。御殿建物おおむね寛永期の状態を伝えるが、改変され部分もある。各建物屋根現状瓦葺きであるが、当初杮葺であった貞享3年1686年)に建物破損検分行った際の記録によれば当時すでに瓦葺きであったので、屋根葺き材の変更時期1686年さかのぼることは明らかである。 二の丸御殿は、明治以降昭和14年1939年)に京都市下賜されるまでの間は京都府庁二条離宮として使用されその間障壁画破損進んだ大広間黒書院外面腰高障子明治期新たに入れられたもので、当初使われていなかったものである日本の城郭御殿明治以降破却されたものが多いなかで、二条城二の丸御殿は、一部改変破損があるとはいえ元来からのオリジナル建物障壁画がともに現存するという意味で大変貴重な存在である(名古屋城本丸御殿では、障壁画大部分現存するが、建物太平洋戦争空襲焼失した)。 遠侍二の丸御殿のうちもっとも手前位置し、かつ、もっとも大規模な建物である。棟を南北向けた入母屋造瓦葺き建物で(以下に述べ二の丸御殿の諸殿はいずれ入母屋造瓦葺き)、面積は1,048平方メートル登城し大名家臣らの控えの場となった建物である。平面正方形近く間取り東西・南北とも3列構成で、北東位置する勅使の間(上段下段分かれる)から逆時計回りに、一の間、二の間、三の間柳の間(四の間とも)、若松の間、帳台の間があり、これらに囲まれ中央部には芙蓉の間と物置がある。物置以外の各室に障壁画があり、いずれも金地濃彩である。勅使の間は上段21畳、下段35畳。上段には二間半幅押板形式の床(とこ)と帳台構を備えるが、付書院はない。このような大規模な御殿主室付書院設けないのは異例である。床に向かって左入側境(通常付書院設けられる位置)には腰高障子嵌める。画題上段下段大樹を主とした金地濃彩画である。一の間、二の間、三の間障壁画の画題はいずれ竹虎図で、これらの室には虎の間の別称がある。遠侍玄関)の障壁画に虎を描くことは名古屋城本丸御殿などにも例があり、来訪者威嚇する意図があるという。障壁画筆者について狩野山楽との伝えもあるが、研究者狩野甚之丞の筆と推定している。『二条御城御指図』(宮内庁書陵部)には遠侍障壁画筆者を「真節」としており、これは「真設」(甚之丞の号)を指す。なお、この甚之丞については、名古屋城本丸御殿対面所障壁画筆者とされる甚之丞とは別人(または制作時期大きく異なる)の可能性指摘されている。 式台遠侍の西に接して建つ東西棟の建物である。面積332平方メートル登城し大名らの取次の場となった建物で、手前式台、その裏手に老中一の間、老中二の間、老中三の間がある。各室の障壁画はいずれ金地濃彩である。式台の間48畳で、床(とこ)、付書院等の設備はない。式台の間障壁画巨木を描く。 大広間式台の西に接して建つ南北棟の建物である。面積784平方メートル二の丸御殿の諸殿のうちもっとも格式高く将軍表向き対面用いられた、公式的儀礼的空間である。一の間(上段の間)、二の間(下段の間)、三の間、四の間(鑓の間とも)、帳台の間からなる。一の間は48畳で、床(とこ)、帳台構、付書院備え天井はもっとも格の高い二重折上格天井とする。障壁画巨木主題とする。式台大広間障壁画筆者については『二条御城御指図』に狩野采女すなわち狩野探幽の筆とあり、伝承どおり探幽の作とみなされていたが、2019年令和元年)、二条城研究により四の間のに関して狩野山楽手掛けた結論付けられ通説覆されたと報じられた。 蘇鉄の間は式台黒書院をつなぐ、南北棟の渡廊下状の建物である。明治期板敷変更されているが、江戸時代には畳敷部屋であった黒書院蘇鉄の間の北西接して建つ東西棟の建物である。「黒書院」は幕末頃からの呼称で、それ以前は「小書院」と呼ばれていた。面積569平方メートル大広間公式的儀礼的な表向き対面の場であったのに対し黒書院内向き対面の場であり、将軍御座所でもあった。規模大広間より一回り小さい。一の間(上段の間)、二の間、三の間、四の間、帳台の間からなり、二の間、三の間、四の間は障壁画の画題から、それぞれの間、浜松の間、菊の間ともいう。一の間は24畳半で、床(とこ)、帳台構、付書院備える。このうち北面東端から東面北端にかけて矩折り(L字形)に配置するのが特色である。一の間の天井格天井だが、大広間の一の間のような二重折上とはしていない障壁画式台大広間と同様、主題とするが、床貼付絵は柴垣小禽などを配し松樹には残雪を表すなどして早春季節感を表す。さらに床脇)の壁貼付の竹図と合わせて松竹梅表している。黒書院障壁画筆者については『二条御城御指図』に狩野尚信の筆とあり、伝承どおり尚信の作とみなされている。 白書院黒書院の北に建つ南北棟の建物で、御殿建物群のうちもっとも奥に位置する黒書院とは渡廊下を介して接続する。「白書院」は幕末頃からの呼称で、それ以前は「御座之間」などと呼ばれていた。面積318平方メートル大広間黒書院比べて規模小さい、内向き建物である。将軍休息所、寝所として使用され、本来は将軍夫人、おつきの女中のみが入ることができた間であった障壁画は他の諸殿が金地濃彩主としているのと異なり白書院障壁画淡彩主体となっている。間取り黒書院と同様、一の間(上段の間)、二の間、三の間、四の間、帳台の間、付属の間(指出の間)からなるが、規模黒書院より小さい。一の間は15畳で、床(とこ)、帳台構、付書院備える。一の間の天井格天井だが、二重折上としていないのは黒書院一の間の天井と同様である。障壁画淡彩山水画で、中国西湖情景表したのである白書院障壁画筆者については『二条御城御指図』に狩野興意(狩野興以)の筆とあるが、筆者について異説もあり、2012年東京都江戸東京博物館開催された「二条城展」では「狩野長信または興以筆」とされていた。 二之丸御殿障壁画明細

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