狩野甚之丞とは? わかりやすく解説

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狩野甚之丞

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/24 09:14 UTC 版)

狩野 甚之丞(かのう じんのじょう、 天正9年 (1581年)または天正11年(1583年)? - 寛永3年(1626年または寛永5年3月29日1628年5月3日)?[1][2]))は、安土桃山時代から江戸時代初期に活躍した狩野派(江戸狩野)の絵師[3]狩野宗秀の嫡男で、狩野永徳の甥に当たる。幼名は甚吉、は真説、元秀。


  1. ^ 寛永3年没説は、京都所司代である板倉重宗が記した裁判の覚書である『公事留書』(「備中松山板倉家文書」の名前で国文学研究資料館寄託慶安5年(1652年)8月12日条にある「狩野甚丞後家」と甚之丞門人「狩野宝仙」の間で起きた甚之丞の家屋、諸道具の相続をめぐる裁判記録より。そこで甚之丞後家は「甚丞廿六年以前ニ相果申候」と証言していることから逆算。生年は没年齢46歳からの逆算(五十嵐(2014))だが、後述のように異論もある。
  2. ^ 寛永5年説は、弟子の徳庵が描いた可能性が高い「仏涅槃図」(長安寺(泉南市)蔵)の銘文による。これによると、寛永21年(1644年)3月29日に、弟子の狩野徳庵が師である狩野甚之丞の17回忌追善供養のため涅槃図を寄進したとあり、寄進日が没日と推測できるため、そこから逆算。生年は同じく没年齢46歳からの逆算(佐伯(2017))。
  3. ^ 紫衣事件、慶喜の将軍宣下…歴史動いた二条城「勅使の間」、期間限定で特別入室
  4. ^ 五十嵐(2014年)p.6。
  5. ^ 山本英男 「桃山画壇を生きる─狩野派絵師の攻防─」(京博図録(2015)p.16)。
  6. ^ a b 佐伯(2017)p.45-46。
  7. ^ 共に『古画備考』収録。
  8. ^ 異国日記』。
  9. ^ 「二條御城行幸之御殿御絵付御指図」(京都大学附属図書館蔵)。
  10. ^ 本光国師日記』寛永3年12月25日条。
  11. ^ 『素川本圖繪寶鑑逸文』『古画備考』。
  12. ^ 佐伯(2017)p.44。
  13. ^ 例として「韃靼人狩猟図屏風(左隻右隻)」サンフランシスコ・アジア美術館蔵。
  14. ^ 榊原悟監修 サントリー美術館 大阪市立美術館 日本経済新聞社 『BIOMBO 屏風 日本の美』 日本経済新聞社、2007年、pp.176-177、261-262。


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