釈迦如来像とは? わかりやすく解説

釈迦如来像

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/09 22:42 UTC 版)

普門寺 (いわき市)」の記事における「釈迦如来像」の解説

本堂本尊仏。作者および年代などは明らかではない。

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釈迦如来像(飛鳥大仏)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 11:29 UTC 版)

飛鳥寺」の記事における「釈迦如来像(飛鳥大仏)」の解説

飛鳥寺安居院)の本尊で、飛鳥大仏通称知られる1940年昭和15年)に重要文化財指定されており、指定名称は「銅造釈迦如来坐像本堂安置)1躯」である。像高は275.2センチメートル『日本書紀』元興寺縁起』に見える、鞍作鳥止利仏師)作の本尊像であるが、後述のとおり損傷激しく後世補修受けている。現存する像のどの部分鞍作鳥作のオリジナルで、どの部分が後補であるかについては、後述のように諸説ある。鞍作鳥は、法隆寺金堂本尊釈迦三尊像623年作)の作者であり、同三尊像の光背銘には「司馬鞍首止利」(しばくらつくりのおびととり)と表記されている。 飛鳥寺本尊像完成は、『日本書紀』によれば推古天皇14年606年)、『元興寺縁起によれば推古天皇17年609年)であるが、本項の「歴史」の節で述べたように後者609年完成説が定説となっている。『元興寺縁起』には脇侍像の存在明記しており、本尊像下方にある石造台座両脇侍像用とみられる枘穴が残ることから、当初法隆寺釈迦三尊像同様の三尊形式だったはずだが両脇侍像は失われ釈迦像も鎌倉時代建久7年1196年)の落雷のための火災甚大な損害受けている。1933年昭和8年)に石田茂作調査した際の所見では、頭の上半分、左耳、右手の第2 - 第4指鋳造後に表面研磨仕上げがされており、当初のものとみられるが、体部大部分鋳放し表面の仕上げがされていない)で後世のものと思われ脚部の上粘土衣文つくっており、左手木製のものを差し込んでいるという。また、像の各所亀裂があり、亀裂の上から紙を貼って墨を塗ったところも見受けられた。 1973年昭和48年)には奈良国立文化財研究所による調査が行われたが、その結果当初部分考えられるのは頭部の額から下、鼻から上の部分と、右手の第2 - 第4指のみだとされた。右手の第2・3・4指については、掌の部分ほぞ差しされていることがエックス線撮影によって確認されている。顔貌表現のうち、眼の輪郭線や眉から鼻梁に至る線には明らかに当初タガネ仕上げ残っており、鍍金わずかに残っている。頭部下半分は造像当初から溶回りきらなかった部分象嵌や補鋳を行っていた可能性がある。本像を調査した久野健は、左の掌の一部当初のものであるとし、左足裏と左足指の一部焼け跡みられることから当初のものではないかとしている。 当初部分とみられる頭部について見ると、面長の顔立ち杏仁形アーモンド形)の眼の表現など現存する他の飛鳥仏に共通する表現見られる右手の指の表現を見ると、本像では指の関節部分を1本の刻線で表しているのに対し法隆寺金堂釈迦如来像は同じ箇所を2本の刻線で表していることが注意される体部のほとんどが後補であるが、その服制には古様が感じられ焼失前の形態踏襲している可能性がある。田邊三郎助によると、本像の大衣が左肩 - 背 - 右肩回った後、体の前面覆って再び左肩にかかる形は北魏の古像にみられ、胸の部分内衣の襟をV字状に表す点は百済の像に例があり、その下に見える蝶結びのような紐の結び目法隆寺戊子年(628年釈迦及び脇侍像などにみられる古い形式であるという。 2012年平成24年7月早稲田大学大橋一章らの研究チームが行った調査結果同年10月公表されたが、これによると現存像の大部分造立当初のものである可能性が高いという。大橋らは、造立当初とされる部分補修とされる部分蛍光X線による分析行ったが、その結果両者元素組成には顕著な差異見られなかった。また、上記分析より金(Au)が検出された伝・光背断片X線回折分析したところ、同断片が火災遭ったことと鍍金されていたことが推測された。また鋳造専門家調査でも複数注いだ継ぎ目の跡があり、奈良時代以前技法としている。 大阪大学教授藤田穣を代表者とする研究チームは、2015年平成27年)・2016年平成28年)にあらためて本像に対す蛍光X線分析XRF分析)、X線回折分析を行うとともに、像内の調査行った2017年平成29年)に発表され同調査の報告書は、飛鳥大仏について、体部大部分が後補であるとしている。同報告は、本像の面部オリジナルが残る)と体部(大部分が後補)の金属組成大きな差がみられないことについては、建久7年1196年)の火災溶けた再利用した可能性があるとし、像のどの箇所オリジナルでどの箇所が後補であるかについては、以下のように述べている。 面部については、従来の見解では両眼を含む上半部が当初のものとされてきたが、今回調査結果によればもう少し広く、頬や顎を含む下半部も当初のものとみられる頭髪部については、主に技法観点から、肉髻にっけい仏像頭頂状の盛り上がり)の大部分当初作であるほか、地髪部の一部正面髪際部の螺髪)も当初のものとみられる当初ものとする説もあった左耳については判断保留する右手は、第2〜第4指のみでなく、掌の上半部を含めて飛鳥時代の作とみられる。ただし、鉛の含有率が高いなど、像の他の部分とは金属組成異なることから、本来は他の仏像属していた手の部分転用し可能性もある。 当初ものとする説もあった左手一部左足裏については、今回分析結果からは、当初のものと結論づけることはできない。 本像は創建当初据えられ石造台座の上安置されている。発掘調査結果、この石造台座創建時から動いていないことが明らかになった。石造台座造の仏像安置するのは不自然だとして、久野健らは当初中金堂本尊は蘇我馬子所持石仏弥勒像であり、それが後に本像と入れ替わったものだと想定した1981年昭和56年)の再調査で、この台座花崗岩ではなく竜山石凝灰岩)製であることが分かったまた、の上須弥座は後補と思われていたが、内部当初竜山石凝灰岩)製の須弥座一部残存していることが分かった。このことから、石造台座当初から造釈迦如来像を安置するために造られたものであり、飛鳥大仏飛鳥時代から同じ場所に安置されていることがあらため確認された。造の仏像石造台座上に安置したのは、造の重量支えるだけの台座造る技術当時なかったためではないかと言われている。

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