従来の見解
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 01:56 UTC 版)
「シェイクスピア別人説」の記事における「従来の見解」の解説
シェイクスピアに関して広く認められている従来からの見解は以下の通りである。ウィリアム・シェイクスピアは1564年にストラトフォード・アポン・エイヴォンで生まれた。その後ロンドンへ移り、詩や戯曲を書く一方で俳優も務め、内大臣一座(後に庇護者ジェームズ1世の即位に伴い国王一座(King's Men)と改称)と呼ばれる人気劇団の株主(共同経営の劇団主)となり、グローブ座とブラックフライアーズ座の2劇場を中心に活躍する。1613年頃にロンドンでの活動から隠退し、1616年に亡くなるまでの余生を故郷ストラトフォードで過ごした。生前に発表された15篇の戯曲の内14篇の扉にシェイクスピアの名前が掲載されている。「本当の作者」として候補に上げられている人物達の大半も死去した後の1623年、その戯曲が集められて最初の二折判著作集(ファースト・フォリオ)が出版された。 この俳優の身元を特定するのに役立つ証拠としては以下のようなものがある。ストラトフォードのシェイクスピアは遺言書においてロンドンの劇団から俳優達への寄贈品を遺した。ストラトフォードの男と作品の著者は名前が同じである。1623年刊のファースト・フォリオの序詞において「エイヴォンの白鳥」("Swan of Avon"、ベン・ジョンソンの詩。シェイクスピアの美称として定着している)、あるいは「ストラトフォードの記念碑」(レオナルド・ディッグスの詩)といった表現が見られる。従来の研究者は、後者のフレーズはストラトフォードにあるホーリー・トリニティ教会(英語版)の墓標を表すものと推定している。その墓碑銘でシェイクスピアは作家と呼ばれており、ウェルギリウスとの比較や彼の作品に対する「生きた芸術」との評言もあり、1630年代頃までにはストラトフォードへの訪問者はこれを「記念碑」と表現していたのである。 上記のような証拠から「シェイクスピアの名で発表された戯曲は、ストラトフォード出身でロンドンへ来てから俳優兼劇作家になったウィリアム・シェイクスピアなる人物によって書かれたものである」というのが従来の一般的な見解となっている。
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