市河家文書の発見
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 05:56 UTC 版)
ウィキソースに市河家文書の原文があります。 昭和44年(1969年)10月、同年に放送されていた大河ドラマ『天と地と』に触発された北海道釧路市在住の視聴者が、先祖伝来の古文書から戦国時代のものと思われる「山本菅助」の名が記された1通の書状を探し出し、北海道大学、信濃史料編纂室に鑑定に出したところ真物と確認された。これは信濃国高井郡の国衆で、戦国時代には武田家臣、近世には上杉家家臣となり、明治期に屯田兵として北海道へ渡った市河氏の子孫家に伝来した古文書群で、市河家文書と呼ばれる。現在は大半が所蔵家のもとを離れ本間美術館に所蔵されている。そのうち手元に残した一部が「釧路市河家文書」で、「山本菅助」文書はこの中に含まれる。現在は山梨県立博物館所蔵。この書状の発見によって、実在そのものが否定されかけていた山本勘助の存在に、新たな一石が投じられた。 市河家文書の発見を受けて、磯貝正義、佐藤八郎、小林計一郎ら山梨・長野県の研究者による研究が相次ぎ、磯貝は市河家文書の発見を持って「山本菅助」の実在は立証されたとしつつも、『甲陽軍鑑』における信玄の軍師としての逸話や諱の「晴幸」に関しては疑問が持たれる点を指摘した。 小林は「山本菅助」を『甲陽軍鑑』における山本勘助と同一人物とし、さらにこの文書が第三次川中島合戦に際した弘治3年(1557年)の発給で、菅助は従来の見解による山県の家来ではなく、信玄側近として使者を務める地位の高い人物と評した。 一方、佐藤八郎は磯貝の見解を支持しつつも、「山本菅助」を「山本勘助」に結びつける点に関しては慎重視する見解を示した。
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