市沢:鎌倉後期の公家政権の構造と展開――建武新政への一展望――
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「後醍醐天皇」の記事における「市沢:鎌倉後期の公家政権の構造と展開――建武新政への一展望――」の解説
1992年、市沢はまず、佐藤進一説の問題点として、佐藤は平安時代後期の朝廷政治と建武政権の朝廷政治を比較しているが、中間の鎌倉時代の朝廷政治を無視していることを指摘した。直前の鎌倉時代後期の朝廷政治の研究も行わなければ、建武政権が本当に特異な政権だったのかどうかはわからない。 鎌倉時代後期は、都市領主、つまり京都など畿内に住みながら日本各地の荘園(土地)に利権を持つ大貴族・大寺社らが私兵を手駒に使って戦わせる戦争の時代だった。貴族社会の分家化や、武士の守護・地頭による押領によって、都市領主間の抗争が活発した。これらの抗争は、一つ目には既存の支配体制の強化、二つ目には他領主からの略奪によって起きた。 たとえば、正応3年(1290年)から翌年まで、紀伊国(和歌山県)荒川荘で高野合戦と呼ばれる戦いが起きた。これは真言宗高野山が、別の荘園の領主である三毛心浄の軍勢を送って荘園の支配体制を強化しようしたところ、それを察知した土着の豪族の源為時が先手を打って戦いを始めたものと見られる。為時は高野山の動きを山門(天台宗比叡山延暦寺)に訴えたので、宗教間の代理戦争の様相も呈した。他領主からの略奪としては、後宇多上皇が四辻宮から荘園の接収をしようとし、両者は同地にいわゆる「悪党」(悪人という意味ではなく、既存の支配体制の枠組みから外れた武士・豪族たち)と呼ばれる軍事力を送って戦いを繰り広げた。 とはいえ、軍事力による抗争はあくまで最終手段であり、できれば話し合いで解決したいという考え自体は誰もが持っていたと思われる。このように、武力抗争が活発化することで、かえって訴訟制度の重要性が公家社会で再認識され、抗争を回避・解決するために、制度の整備・改革が進められたと考えられる。 また、市沢は、裁判の当事者たちが、自分たちの主張に箔をつけるために、治天の君による勅を求める事例が多くなることを、前の論文に続き改めて指摘した。さらに、訴訟でしばしば「徳政」という語が用いられていることを論じた。当時の徳政とは、天人相関説による思想で、為政者が悪いことをすると天変地異が起こり、良いことをすると災害が治まる、という考え方である。つまり、訴訟問題を解決することが、治天の君にとっての徳政であり、朝廷での最重要課題だと考えられていたのである。土地の支配構造の変化に伴い、「治天の君」という超越的な立場を利用して、新たな秩序を創造することこそが、天皇家に求められる役割になった。 建武政権で、後醍醐がまず行った行動に個別安堵法(元弘三年六月十五日口宣案)というものがある。この通達やそれに続く法令が言う所は、綸旨(天皇の私的命令文)によってそれぞれの領主に土地の権利を保証し、訴訟・申請の裁許も綸旨を必要とすると定めるものである。かつて、佐藤進一は、これを後醍醐の絶対的権力への執着欲と見なし、建武政権の異常性を示すものと考えた。ところが、上で見たように、実は鎌倉時代後期、治天の君権力によって土地問題に裁許を下すという発想は、既に後醍醐以前からあり、しかもそれは都市領主の側から求められたものだった。つまり、後醍醐の政策は、領主たちの要望に応えて、時代の流れに沿ったものだったのである。 しかし、このような「治天の君」権力の強化が、鎌倉時代後期には、逆に両統の分裂の矛盾を大きくすることになっていった。皇統の分裂は、誰かがいつかは解決しなければならない問題であり、こうした訴訟問題における要請が後醍醐の行動を促したと考えられる。 また、佐藤が「平安時代以来の秩序を破壊した」と主張する建武政権の他の政策についても、市沢は、平安時代ではなく、鎌倉時代後期の政治を考えれば、実は順当なものであることを指摘した。 たとえば佐藤は、知行国主(国司より上位で、特定の国を事実上支配する大貴族・大寺社)がそれまで特定の家に結び付けられていたのを、後醍醐が建武政権で新たな守護・国司制を作ったことで破壊したと主張した。しかし、実は鎌倉時代後期、両統迭立以来、天皇の皇統が変わるたびに知行国主が変わることが多く、既に特定の国=特定の家のものという認識は崩れていた。その点を考えると、後醍醐の守護・国司制はそこまで急進的な改革だった訳ではない。 また、佐藤は、後醍醐が「官司請負制の破壊」という政策を行ったと主張した。つまり、特定の官職が特定の家に結び付けられていたのを、宋朝型官僚制の影響を受けて破壊し、官司は全て後醍醐の支配下にあるという観念論的独裁政治を行ったのだという。しかし、市沢が調べてみたところ、官司請負制の破壊は全面的なものではなく、職務に能力が必要とされないものだけであった。つまり、官務・局務といった書記官や事務官など、能力が問われる職については、小槻氏など従来からの官僚的氏族がそのまま担当した。逆に、馬寮など、特に職務がなく、利益を受け取るだけの恩賞的な官職については、後醍醐は恩賞代わりに自由に配分した。しかも、これは後醍醐に特有なものではなく、13世紀半ばごろから、恩賞的な官職については特定の家に結びつかないことが徐々に増えていく傾向にあった。また、こうした鎌倉時代中期からの恩賞的官職の分配を左右できる力が、鎌倉時代後期の治天の君権力の強化に繋がったとも考えられる。 結論として、後醍醐・建武政権の中央集権政策は特異なものではなく、鎌倉時代後期の朝廷の訴訟制度改革の中で、領主たちの求めに応じて生じた「治天の君」権力の強化の流れとその政策を、順当に発展させたものであるという。また、鎌倉幕府は武士の惣領の選定に原則干渉できなかったのに、室町幕府には相続法がなく、惣領選定に強い権力を有した。市沢によれば、これは、鎌倉時代後期の治天の君権力(朝廷政策)→建武政権の中央集権政策→室町幕府の中央集権政策というように受け継がれたものであり、したがって、建武政権と室町幕府の間にもその政策に連続性が見られるという。
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