鎌倉時代後期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 14:18 UTC 版)
少弐資能の死後、経資と景資の兄弟間で家督をめぐり争いが起り、弘安8年(1285年)に鎌倉で御家人の安達泰盛と内管領の平頼綱が対立して霜月騒動が起こると、弟・景資は泰盛の子・安達盛宗と共に、頼綱側についた兄・経資と戦い、敗死する(岩門合戦)。その後、鎮西探題が設置されて北条氏の力が西国にも及ぶようになると、少弐氏もその配下とされ雌伏のときをむかえる。 鎌倉時代末期の元弘3年/正慶2年(1333年)に後醍醐天皇の討幕運動から元弘の乱が起こると、少弐貞経は大友氏らとともに討幕運動に参加し、鎮西探題を攻撃する。鎌倉幕府滅亡後に後醍醐天皇による建武の新政が開始され、新政から離反した足利尊氏が建武3年(1336年)に京都から駆逐され、九州へ逃れると、貞経の子の少弐頼尚は尊氏を迎えて赤間関へ赴くが、その最中に宮方に属した肥後国(現在の熊本県)の菊池氏が大宰府を襲撃して父の貞経を滅ぼした。頼尚は足利方とともに多々良浜の戦いにて菊池武敏らを破った。
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