鎌倉時代後期の大掾氏
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源頼朝によって常陸大掾に任じられて、大掾氏の事実上の初代となった大掾資幹の没後、その嫡男である朝幹が大掾の地位を継承することに小田知重から異論が出されるが、安貞元年(1227年)に鎌倉幕府執権北条泰時は資幹から朝幹に継承された頼朝の下文を根拠として大掾氏による大掾職の世襲を認めた。 朝幹の後は嫡男の大掾孝幹が継承してその後出家して「妙観」と号していたが、その後を継いだ嫡男の大掾光幹が早世したために孝幹は光幹の長男・大掾経幹に家督を継がせてその後見となった。 ところが、正応2年4月6日(1289年4月27日)に孝幹が68歳で没する(『常陸誌料』「平氏譜」)と、光幹の三男である長寿の外祖父である御内人・工藤高光(理覚)らの計らいで、経幹は追放されて長寿が大掾氏の当主となり、後に元服して時幹と名乗る。経幹はそれに抗議して徳治年間まで20年以上にわたって兄弟による訴訟が続いているが最終的に時幹が勝訴している。 光幹・経幹・時幹・盛幹・高幹の生没年を確定させる史料はないものの、孝幹が正応2年に68歳で没したときに時幹(長寿)は元服前であったことを考えると、それから約40-50年後の建武年間に時幹(長寿)の孫が活躍したとは考えにくく、高幹は時幹の子で兄の盛幹の早世によって家督を継いだと考えられている。中根正人は、高幹(浄永)は1300年代後半の誕生であったと推定している。
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