鎌倉時代後期の大掾氏とは? わかりやすく解説

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鎌倉時代後期の大掾氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/18 16:47 UTC 版)

大掾高幹」の記事における「鎌倉時代後期の大掾氏」の解説

源頼朝によって常陸大掾任じられて、大掾氏事実上初代となった大掾資幹没後、その嫡男ある朝幹が大掾地位継承することに小田知重から異論出されるが、安貞元年1227年)に鎌倉幕府執権北条泰時は資幹から朝幹に継承され頼朝下文根拠として大掾氏による大掾職の世襲認めた。 朝幹の後は嫡男大掾孝幹が継承してその後出家して「妙観」と号していたが、その後継いだ嫡男大掾光幹が早世したために孝幹は光幹の長男大掾経幹に家督を継がせてその後となった。 ところが、正応2年4月6日1289年4月27日)に孝幹が68歳没する(『常陸誌料』「平氏譜」)と、光幹の三男である長寿外祖父である御内人工藤高光(理覚)らの計らいで、経幹は追放されて長寿大掾氏当主となり、後に元服して時幹と名乗る。経幹はそれに抗議して徳治年間まで20年以上にわたって兄弟による訴訟続いているが最終的に時幹が勝訴している。 光幹・経幹・時幹・盛幹・高幹生没年確定させる史料はないものの、孝幹が正応2年68歳没したときに時幹(長寿)は元服であったことを考えると、それから約40-50年後の建武年間に時幹(長寿)の孫が活躍したとは考えにくく、高幹は時幹の子で兄の盛幹の早世によって家督継いだ考えられている。中根正人は、高幹(浄永)は1300年代後半誕生であった推定している。

※この「鎌倉時代後期の大掾氏」の解説は、「大掾高幹」の解説の一部です。
「鎌倉時代後期の大掾氏」を含む「大掾高幹」の記事については、「大掾高幹」の概要を参照ください。

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