鎌倉時代~戦国時代
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鎌倉新仏教においても法華経は重要な役割を果たした。大念仏を唱え融通念仏宗の祖となる良忍は後の浄土系仏教の先駆として称名念仏を主張したが、華厳経と法華経を正依とし、浄土三部経を傍依とした。 曹洞宗の祖師である道元は、「只管打坐」の坐禅を成仏の実践法として宣揚しながらも、その理論的裏づけは、あくまでも法華経の教えの中に探し求めていこうとし続けた。臨終の時に彼が読んだ経文は、法華経の如来神力品であった。 日蓮は、「南無妙法蓮華経」の題目を唱え(唱題行)、妙法蓮華経に帰命していくなかで凡夫の身の中にも仏性が目覚めてゆき、真の成仏の道を歩むことが出来る(妙は蘇生の儀也)、という教えを説き、法華宗各派の祖となった。それまでも祈祷や懺悔滅罪のために法華経の読誦や写経は盛んに行われていたが、日蓮教学の法華宗は、この経の題目(題名)の「妙法蓮華経」(鳩摩羅什漢訳本の正式名)の五字を重んじ、南無妙法蓮華経(五字七字の題目)と唱えることを正行(しょうぎょう)とした所に特色がある。 一方で浄土宗の祖である法然や浄土真宗を開いた親鸞などは、比叡山で万人成仏を説く法華経を学んだのちに、持戒や難行を必要としない称名念仏を万人成仏の具体的な手段として見出し、専修念仏を説いた。浄土教と法華経の戦いは時として激しい衝突に至った(法華一揆、安土問答)。
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鎌倉時代~戦国時代
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「南部氏歴史年表」の記事における「鎌倉時代~戦国時代」の解説
南部氏が北奥羽で本格的な活動を開始するのは、南北朝争乱の頃からである。元弘3年(1333年)5月に鎌倉幕府が滅亡して、後醍醐天皇による建武の新政が始まり、鎮守府将軍に任じられた足利尊氏には北条泰家の遺領である外が浜、糠部郡を与えた。尊氏が離反すると鎮守府将軍職は北畠顕家に移り、陸奧守として義良親王を奉じて多賀城の国府に赴任し、随行した根城南部氏第3代の南部師行が北奥各郡の検断・奉行として任じられた。 1189年 文治 5年 奥州平泉攻撃 1215年 建保 3年 11月 21日 南部光行、鎌倉で死去。 1322年 元亨 2年 安藤氏の乱 1324年 4年 正中の変 1333年 正慶 3年 5月 南部政長、新田義貞の鎌倉攻めに加わり、その功により、甲斐国倉見山、陸奥国糠部郡七戸郷を与えられる。その後陸奥国に下向する。 後醍醐天皇、北条氏滅亡を受けて京都に帰り、北畠顕家を陸奧守に任じる。 1334年 建武元年 建武の新政 南部師行、糠部郡の郡奉行と郡検断を兼ねる国代として任じられる。 大光寺合戦 1335年 2年 3月 南部師行、北条得宗領の外ヶ浜内摩部郷(現青森市)のうち、泉田、潮方(後潟)、中沢を与えられる。 7月 北条時行が兵を挙げ、鎌倉に入る。(中先代の乱) 10月 足利尊氏が鎌倉で反旗を翻すと、曾我氏、安藤家季以下安藤氏一族も呼応。 1336年 建武 3年 (延元元年) 足利尊氏の御教書を受けた安藤家季が合戦奉行となる。津軽曾我氏などがそれに従い、藤崎城、平内城の南朝方の軍勢と戦う。 1338年 暦応元年 ( 3年) 5月 北畠顕家・南部師行ら、和泉国石津で討死。(石津の戦い) 1339年 2年 ( 4年) 8月 後醍醐天皇、吉野において崩御。義良親王が帝位を継がれる。 1340年 3年 (興国元年) 12月 南部政長、根城南部氏第5代当主となる。 1341年 4年 ( 2年) 春 栗谷川の合戦、宮方勢、岩手・斯波両郡を制圧。 6月 津軽の曾我氏と糠部郡の南部氏の間で抗戦が始まる。 1343年 康永 2年 ( 4年) 陸奧国司北畠顕信、滴石(雫石)に逃げる。 1352年 文和元年 (正平 7年) 南部信長、多賀府中合戦に出陣中に北朝方に転じる。 1373年 応安 6年 (文中 2年) 南部守行、一族を伴って糠部に下る。(三戸南部の糠部定着) 1386年 至徳 3年 ( 3年) 11月 北畠氏、「奥州新国司」を自称して浪岡に入部。 1392年 明徳 3年 (元中 9年) 閏10月 南北朝合一。 1393年 4年 根城南部氏第8代当主の南部政光、甲斐の本領を室町幕府に返上、根城に移住する。 1407年 応永14年 4月 根城南部氏第10代当主の南部光経、修理亮に推挙。 18年 南部守行、八戸南部氏と共同で仙北刈和野で安東鹿季と合戦、領地を確保。(秋田合戦) 1417年 24年 北畠氏の仲介により安東領と南部領の領境を定める。 1418年 25年 8月 南部氏、上洛。馬100疋、金1000両を将軍に献上。 1428年 正長元年 十三湊、南部勢に掌握される。 1432年 永享 4年 10月 南部義政、藤崎城を攻める。敗れた安藤盛季・康季、蝦夷地に敗走、幕府が調停する。 1435年 7年 和賀惣領家と須々孫氏の内訌(和賀・稗貫の動乱) 1437年 9年 関東地方で発生した永享の乱の影響により、奥州においても葛西氏と大崎氏が合戦を始める(永享・嘉吉の乱) 1440年 12年 結城合戦 1442年 宝徳 2年 安藤盛季・康季、南部義政のため十三湊を追われる。翌年12月、小泊から蝦夷地松前に逃れる。 1451年 嘉吉 3年 蠣崎蔵人信純、錦帯城を築く。 1452年 享徳元年 武田信広、田名部・蠣崎の知行を許され、蠣崎氏と名乗る。 1453年 2年 津軽安東氏第9代義季が、再び南部軍と戦い討死。その養子の第10代政季が南部氏の捕虜となり、下北に配流。のちに再び蝦夷地に逃避。 1455年 3年 享徳の乱 1456年 康正 2年 4月 糠部南部義政、秋田に出陣、湊安東氏と交戦、南部方敗退。(秋田高寺合戦) 1457年 3年 2月 陸奧の田名部において蠣崎蔵人の兵乱起る。 2月 根城南部氏南部河内守政経、兵船をもって田名部に進攻。 4月 田名部一帯が南部政経により制圧され、蠣崎蔵人、蝦夷地に逃れる。 4月 南部政経、軍功により田名部全土を所領に加えられる。 1467年 応仁元年 1月 京都に攪乱起る。(応仁の乱) 2月に (三戸)南部政盛は斯波政直の軍触によって、葛西氏秋田氏等と共に、信夫郡に征上、伊達・蘆名氏等と合戦したが兵糧が続かずに帰陣。 1468年 2年 南部家信、仙北支配を断念し三戸に撤退。 1477年 文明 9年 11月 応仁以来の兵乱略治まる。 1483年 15年 南部彦四郎の乱(『南部史要』) 1485年 17年 8月 南部政盛、葛西領気仙郡有住郷に侵入し敗績した。 1491年 延徳 3年 久慈南部光信を津軽西浜の鼻和郡の種里城におく。 1498年 明応 7年 南部弾正康時が津軽外ヶ浜の堤浦(青森市)に入部。 1502年 文亀 2年 久慈光信、種里から大浦に進出し、大浦氏と名乗る。 1521年 大永元年 6月 志和郡郡山にて三戸南部氏と和賀氏の合戦。 1533年 天文 2年 南部安信の弟高信、津軽で起きた反乱を鎮圧。津軽郡代に任命。 1534年 3年 6月 大崎領内に内乱が惹起。大崎義直の族新田頼遠が主家に叛く。(大崎内乱) 8月 三戸南部氏が北上地方に南侵し、柏山氏と合戦、敗退する。 1536年 5年 6月 大崎再乱。陸奥国守護職伊達稙宗は江刺左衛門督に対し大崎領袋中に出兵するよう申し送る。 10月 伊達稙宗の子・小僧丸が大崎高兼の娘を娶る形で養子として送り込まれ、大崎氏は伊達氏に従属したく。 1539年 8年 6月 家臣赤沼備中の放火により、本三戸城(聖寿寺館)が焼失。 八戸義継、早世のため弟次郎(治義)が家を継ぐ。(八戸家内訌) 7月 南部晴政、上洛し将軍足利義晴より偏諱を拝領。 1540年 9年 南部氏、雫石戸沢氏を攻めて、岩手郡より出羽仙北郡角館に走らせる。 1541年 10年 南部晴政、三戸南部家第24代当主となる。 1555年 弘治 元年 浪岡中将具永が死去。 1562年 永禄 5年 4月 浪岡具運、所領をめぐり叔父の川原御所具信と対立から川原御所の乱。 1565年 8年 7月 鹿角郡及び比内郡においてに、南部氏と秋田安東氏との間で衝突。(鹿角合戦) 1569年 10年 正月 新田左馬助行政が卒去し、八戸政栄が出向いて会葬している留守を狙い、櫛引氏が八戸根城城を襲撃。 1568年 11年 正月 安東愛季、鹿角郡に侵攻。長牛館を攻める。 3月 南部信直、晴信の陣代として鹿角出陣。 1569年 12年 南部晴政、鹿角を奪回。 1571年 元亀 2年 2月 大浦為信、石川城攻略。石川高信、自害。 8月 八戸政栄、櫛引領に侵入。櫛引方は大敗。 1572年 3年 8月 田子城主南部左衛門尉高信、津軽三郡を平定。
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