伊達稙宗(だて たねむね) 1488~1565
○次郎 受天 左京太夫 陸奥守護
◇父:伊達大膳大夫尚宗 室:芦名盛高女、下館氏女、中館氏女、亘理兵庫頭宗隆女、中条定資女? 子:伊達晴宗、大崎義宣、伊達実元、玄蕃丸、宗澄、桑折四郎、葛西晴清、梁川宗清、村田宗殖、清三郎(宗栄)、亘理綱宗、元宗、大有康甫、伊達七郎
陸奥・伊達氏第14代当主。陸奥・梁川城主。「棟役日記」「段銭古帳」を作成して徴税の体系化等、内政に尽力すると共に、分国法「塵芥集」を制定し、戦国大名としての権力確立を図る。また、子の多くを近隣諸家に入嗣、入嫁させ、奥州における伊達氏の地位を築くが、子実元を越後・上杉氏に入嗣させようとして、これに反対する嫡男晴宗と対立する。急進的な稙宗の政策に反発した国人衆は、晴宗に味方し、全奥州を巻き込む大乱(天文の大乱)に発展する。この乱に敗れて丸森に隠退し、同地で没した。
◇父:伊達大膳大夫尚宗 室:芦名盛高女、下館氏女、中館氏女、亘理兵庫頭宗隆女、中条定資女? 子:伊達晴宗、大崎義宣、伊達実元、玄蕃丸、宗澄、桑折四郎、葛西晴清、梁川宗清、村田宗殖、清三郎(宗栄)、亘理綱宗、元宗、大有康甫、伊達七郎
陸奥・伊達氏第14代当主。陸奥・梁川城主。「棟役日記」「段銭古帳」を作成して徴税の体系化等、内政に尽力すると共に、分国法「塵芥集」を制定し、戦国大名としての権力確立を図る。また、子の多くを近隣諸家に入嗣、入嫁させ、奥州における伊達氏の地位を築くが、子実元を越後・上杉氏に入嗣させようとして、これに反対する嫡男晴宗と対立する。急進的な稙宗の政策に反発した国人衆は、晴宗に味方し、全奥州を巻き込む大乱(天文の大乱)に発展する。この乱に敗れて丸森に隠退し、同地で没した。
伊達稙宗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/03 16:39 UTC 版)
伊達 稙宗(だて たねむね)は、陸奥国の戦国大名。官位は従四位下・左京大夫。伊達氏14代当主。伊達政宗の曾祖父。
注釈
- ^ 仙台藩の史料では上杉定実を積翠院の父とするが、年代的には全く整合性がとれないため、実際には、積翠院は定実の実姉(15歳以上年長か)と考えられている[1]。
- ^ 11代義澄の将軍廃位後に将軍職に復帰した。
- ^ なお、この偏諱・任官の申請は将軍義稙は拒否する意向であったが、高国の判断で認められ、後日両者の関係を悪化させる一因になった[3]。
- ^ 陸奥・出羽は守護不設置であり、探題・国人による支配だった[7]。
- ^ 文亀3年(1503年)には越後上杉家の上杉房能と伊達尚宗の間で書札礼を巡る紛争が発生している[11]。
- ^ 寛文7年(1667年)に相馬中村藩士・中津幸政が編纂した『奥相茶話記』は、相馬顕胤室の母は先妻の上杉氏、晴宗の母は継室・蘆名盛舜の娘で両者は異母姉弟であるとしているが、『茶話記異説改選集』にて共に泰心院の子であると訂正されている。
- ^ 泰心院の子とも。
- ^ 稙宗にとっては七男。牛猿丸は盛岡藩系の系譜では葛西晴清(はるきよ)、仙台藩系の系譜では葛西晴胤を指すとしている。
出典
- ^ 長谷川伸「南奥羽地域における守護・国人の同盟関係」『地方史研究』254号、1994年
- ^ 『大日本史料』9編6冊772頁。永正14年3月9日条
- ^ 浜口誠至『在京大名細川京兆家の政治史的研究』思文閣出版、2014年、P227
- ^ 『大日本史料』9編11冊95頁。永正17年6月21日条。
- ^ 「伊達正統世次考」
- ^ 『寒河江市史 上巻』pp.714「天文本大江系図」
- ^ 『中世出羽の領主と城館』p.90-92
- ^ 『大日本史料』9編13冊411頁。大永1年12月7日条
- ^ 『大日本史料』9編25冊補遺281頁「武家手鑑」
- ^ 『大日本史料』9編25冊補遺282頁
- ^ (文亀3年)8月9日付黒田吉忠書状(三浦和田文書『新潟県史 中世二』1318号)
- ^ 黒嶋敏「奥州探題考」『中世の権力と列島』(高志書院、2012年) ISBN 978-4-86215-113-1) P41-45.
- ^ 『史料総覧』9編910冊285頁。 天文17年9月是月 「伊達正統世次考」
- ^ 黒嶋敏「はるかなる伊達晴宗-同時代史料と近世家譜の懸隔」(初出:『青山史学』第20号、2002年)/所収:遠藤ゆり子 編『シリーズ・中世関東武士の研究 第二五巻 戦国大名伊達氏』(戎光祥出版、2019年) ISBN 978-4-86403-315-2) 2019年、P69・89.
- ^ 『史料総覧』 9編910冊614頁 。
- ^ 『史料総覧』9編910冊614頁「伊達家家譜」
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