天文の乱
天文の乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 18:44 UTC 版)
天文11年(1542年)6月、稙宗・晴宗父子が争う天文の乱が始ると、義宣は実父の稙宗にくみしたが、義父の義直は晴宗側に立った。天文12年(1543年)5月までに宮城郡南部の国分領に入り、国分の宿敵である留守氏と対抗した。6月16日に義宣は、名取郡高館の福田玄蕃と留守氏に属する村岡蔵助に、稙宗に味方したことを認め励ます書状を送った。留守氏の家臣の切り崩しにかかったということである。7月12日には稙宗が、義宣が軍事行動を起こしたことを名取郡の秋保則盛に伝え、刈田郡と柴田郡の計略を相談するよう指示する書状を送った。稙宗は13日には柿沼広永にも同趣旨の書を送った。8月10日に稙宗は山岸宗成と山岸勝定にも同趣旨の書状を送り、戦闘状態が続いていたことが知られる。そして9月12日には支倉忠常の本拠である柴田郡長谷倉におり、少なくとも翌年1月までその地に在陣した。大崎領から南に離れた伊達勢力圏の北東部で、稙宗党をまとめるべく活動したようである。 義宣は大崎領内では東端にあたる不動堂を拠点とし、天文13年(1544年)に攻め寄せてきた大崎義直の軍と対陣した。不動堂には天文16年・17年(1547年・1548年)にも義直軍が寄せてきた。結局、大崎領の中で義宣はほとんど足場を築けなかったようである
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