天文21年の戦い 武田信常 VS 里見義堯、義弘とは? わかりやすく解説

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天文21年の戦い 武田信常 VS 里見義堯、義弘

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/18 02:47 UTC 版)

久保田城 (上総国)」の記事における「天文21年の戦い 武田信常 VS 里見義堯、義弘」の解説

天文21年1552年)、小田原北条氏康は、椎津城武田信政万喜城夷隅町万木)の土岐頼定(或いは其の土岐為頼(萬喜弾正少弼)以下同じ。)を味方引き入れようとした。武田信政北条結んだが、土岐頼定は拒絶して里見氏注進したため里見義堯義弘父子は、機先を制し武田信政椎津城攻略向かった。『里見代々記、房総軍記』。この里見氏侵攻時に前線久保田城守備していたのは、笹子城主武田信茂の三男椎津城家老武田信常(真里谷源三郎信常)である。 里見軍は、武田信常の守る久保田城包囲したが、後詰がなく落城必至とみて武田信常は椎津城向けて脱出するが、笠上川ほとりで討死した。 天文21年1552年11月4日里見義堯は、土岐頼定(万喜城)、正木時茂大多喜城)を先方に2千の兵で、武田信政北条氏援軍を含む1千の兵で守る椎津城攻撃した。この戦いで武田方は敗れ武田信政は城に火をかけ城中自刃した。 武田一族は、この戦い駆けつけ笹子城の武田信清らを除き、ほとんど戦死した。この戦で上総の国はほとんど里見義堯の手中に入った(『房総軍記』)。

※この「天文21年の戦い 武田信常 VS 里見義堯、義弘」の解説は、「久保田城 (上総国)」の解説の一部です。
「天文21年の戦い 武田信常 VS 里見義堯、義弘」を含む「久保田城 (上総国)」の記事については、「久保田城 (上総国)」の概要を参照ください。

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