天文21年の戦い 武田信常 VS 里見義堯、義弘
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「久保田城 (上総国)」の記事における「天文21年の戦い 武田信常 VS 里見義堯、義弘」の解説
天文21年(1552年)、小田原の北条氏康は、椎津城の武田信政と万喜城(夷隅町万木)の土岐頼定(或いは其の子土岐為頼(萬喜弾正少弼)以下同じ。)を味方に引き入れようとした。武田信政は北条と結んだが、土岐頼定は拒絶して里見氏に注進したため、里見義堯、義弘父子は、機先を制して武田信政の椎津城攻略に向かった。『里見代々記、房総軍記』。この里見氏の侵攻時に前線の久保田城を守備していたのは、笹子城主、武田信茂の三男で椎津城家老の武田信常(真里谷源三郎信常)である。 里見軍は、武田信常の守る久保田城を包囲したが、後詰がなく落城必至とみて武田信常は椎津城に向けて脱出するが、笠上川ほとりで討死した。 天文21年(1552年)11月4日、里見義堯は、土岐頼定(万喜城)、正木時茂(大多喜城)を先方に2千の兵で、武田信政が北条氏の援軍を含む1千の兵で守る椎津城に攻撃した。この戦いで武田方は敗れ、武田信政は城に火をかけ城中で自刃した。 武田一族は、この戦いに駆けつけ、笹子城の武田信清らを除き、ほとんど戦死した。この戦で上総の国はほとんど里見義堯の手中に入った(『房総軍記』)。
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