天文3年(1534年)の戦い 武田信隆、信政 vs 足利義明、武田信応
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天文3年(1534年)5月、真里谷城主武田信隆(真里谷信隆)(庶子)と嫡子の武田信応(真里谷信応)の間に家督争いが起こり、信応が幼少のため叔父武田信助が小弓公方足利義明を味方にして対抗した。「上總武田氏系図」其二 天文3年(1534年)5月10日、足利義明は、武田信応に上総が本意通りに叶ったら一庄与える約束をし、5月19日には武田信保(信清)、信応父子のいずれかが必ず参陣するよう命じて大概は味方に参じたことを伝えた。 「道哲(足利義明)書状」(大藤文書) 「於上総、御本意之上、一庄可有御刷候、巨細二階堂中務太輔、堀江下総守可申遣候、謹言、五月十日 道哲(足利義明)武田大夫(信応)殿」 「道哲(足利義明)書状」(大藤文書) 「如度々被仰出、父子間一人急度令参陣候者、可為御悦喜候、此口之事者大概味方ニ参候、心安可存候、巨砕堀江下総守可申遣候、謹言、五月十九日 道哲(足利義明)武田大夫(信応)殿」 天文3年(1534年)5月20日、足利義明は武田信隆を排するため、兵をあげ上総に出陣した。(快元僧都記) 「快元僧都記」 「天文三年五月廿日 上総衆退治 義明御進発 十六日被出御馬由申間 於當社一經 自十八日至廿二日 結願畢」 このため、武田信隆は子の武田信政(真里谷信政)とともに真里谷城を出て椎津城に拠点を移して立て籠もった。「上総武田氏系図」 「上總武田氏系図」其二 「信隆 幼名八郎太郎。妾腹長男。信応後見の間、真里谷城に住す。信応長ずるに及び、椎津城主と成る。天文二十辛亥年八月二日卒。信隆院殿祥山全吉大居士」 天文3年(1534年)11月20日、武田信応は足利義明の援軍を受け、武田信隆の椎津城を包囲して攻防戦が繰り広げられた。この時、城兵百余人が討たれた「快元僧都記」。 「快元僧都記」 「天文三年十一月廿日。將亦上總眞里谷推垏(椎津)城相掛。自大弓被ㇾ出御馬。敵百餘人被打取之由註進云々。天下兵亂如ㇾ此。」 (天文3年11月20日。はたまた上総真里谷、椎津城、相掛くる。大弓より御馬出さる。敵百余人討ち取らるの由、注進云々。天下兵乱、此の如し) 武田信隆、信政父子は、椎津城を船で脱出し、武田信隆は峰上城(富津市天羽中郷)、子の武田信政は造海城(つくろみ)(富津市竹岡字城山)に入城し、小田原の北条氏と手を握り足利義明に対抗した。「快元僧都記」 天文6年(1537年)5月14日、武田信隆は北条氏綱の援軍(根来金石斎(大藤信基))を受け、真里谷城の武田信応を排除するため、峰上、造海、新地(天神台)の3城で挙兵し立て籠もった。(上総錯乱)「快元僧都記」。 これに対し、天文6年(1537年)5月16日、足利義明は武田信隆の立て籠もる峰上城を攻め、5月18日には、足利義明方についた 里見義堯が造海城を攻めた。その後5月27日、和議が成立、武田信隆は降伏して城を出、北条氏綱を頼って鎌倉に逃れ横浜市の金沢に居した。「快元僧都記」「東慶寺文書」「小弓御所様御討死軍物語」
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