天文の内訌以後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 06:10 UTC 版)
天文の内訌において後北条氏と結び第5代当主となった里見義堯であったが、その後は後北条氏と手を切り、再び小弓公方方につく。その後は後北条氏や上総武田氏とたびたび干戈を交えた。里見氏は、天文7年(1538年)の第一次国府台合戦における大敗、後北条氏による安房攻めなどでたびたび苦境に陥ったが、越後上杉氏と同盟を組むことにより切り抜け、上総に勢力を伸張した。 里見義堯・義弘の親子は、永禄6年(1563年)および永禄7年(1564年)の第二次国府台合戦で後北条氏に敗北を喫するが、永禄10年(1567年)の三船山合戦で北条氏を破り、上総での勢力圏を確固たるものにした。後北条氏が上杉氏と連携すると、これに対抗して義弘は甲斐の武田氏と同盟を組み(甲房同盟)、着々と勢力を拡大。下総南部にも影響を及ぼすようになり、最盛期を迎えた。だが、天正2年(1574年)に義堯が没した頃より北条氏の巻き返しが発生し、天正5年(1577年)、里見義弘はたびたび交戦した北条氏政と和睦(房相一和)して下総から撤退し、以後領国経営に専念する。 義弘が天正6年(1578年)に没すると、嫡子梅王丸と弟義頼(義弘の庶子とも)との間で家督争いが発生し、また上総国人の離反などにより一時家勢は衰えた。しかし家督争いを制して当主となった里見義頼は豊臣秀吉に接近し、安房・上総全域と下総南部の安堵を得ることに成功する。
※この「天文の内訌以後」の解説は、「里見氏」の解説の一部です。
「天文の内訌以後」を含む「里見氏」の記事については、「里見氏」の概要を参照ください。
- 天文の内訌以後のページへのリンク