甲房同盟
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/22 09:21 UTC 版)
越相同盟の成立は、上杉謙信の軍事力を頼りに後北条氏の侵攻を食い止めてきた関東の中小大名にとっては衝撃であった。北関東と並んで後北条氏・上杉氏両氏紛糾の原因となった房総半島については、強敵である武田氏と三船山合戦での勝利以後優位に立った里見氏を同時に敵に回すのは困難であるという判断から、下総・上総・安房の3国を里見領とすることを後北条氏が認め、謙信が後北条氏・里見氏両氏の和睦を取り持った。 しかし里見義弘は、里見氏・後北条氏の戦いは半世紀に及ぶもので今更妥協できる性質のものではないこと、北条氏の傘下として下総国主の地位を守り続けてきた鎌倉時代以来の名門千葉氏が大人しく里見氏の軍門に入るとは考えられないことを理由にこれを拒み、常陸の佐竹義重を誘い後北条氏と争う構えを見せた。 そこに目をつけた武田信玄は、庶流の上総庁南城城主(上総武田氏宗家)武田豊信(一説には信玄3男の信之とも)を里見義弘の下に派遣して、武田氏・里見氏両氏の同盟について協議した。また、太田資正・梶原政景父子も上杉謙信に代わる新たな同盟者として信玄との連携に動いて、里見氏ら関東諸将と武田氏との同盟を模索した。その結果、越相同盟締結の2か月後の永禄12年6月には武田氏家臣である日向宗立が安房国で里見氏家臣である正木憲時と会談、その結果8月までには後北条氏対策としていわゆる「甲房同盟」が締結され、9月には里見氏は上杉謙信との関係を正式に絶った。 これによって里見氏は一時的な安堵を得た。北条・武田両氏の和解後は武田・里見両氏の間の取次であった武田豊信の奔走もあり、甲房同盟は維持されて里見氏と北条氏は武田信玄の意向を受ける形で自然休戦となった。里見氏としても一旦破棄された上杉氏との関係を直ちに復旧させる訳には行かなかったからである。里見氏が再び謙信との同盟に動き出すのは、天正2年(1574年)に北条氏に攻められた関宿城への救援を受諾した後のことで、甲房同盟の維持も図られた。関東諸将と謙信の関係は越相同盟前後から悪化しており、佐竹氏なども謙信との和解と再同盟には踏み切る一方で、武田氏との関係を破棄することは無かった。 天正2年(1574年)11月に関宿城が陥落すると上杉氏の関東への影響力は大きく低下する一方、信玄の後を継いだ武田勝頼の仲介で北条氏と里見・佐竹両氏は一時的に停戦をする。だが、翌天正3年(1575年)5月の長篠の戦いで武田勝頼が大敗したことで武田氏の関東への影響力が大きく低下、甲房同盟もそれを背景とした北条氏と里見・佐竹両氏の停戦も自然消滅し、北条氏は房総半島や北関東への軍事攻勢を強めた。更に武田・上杉両氏ともに台頭する織田信長との戦いに力を注ぐようになり、謙信の主戦場も北陸へと移っていたため、北条氏を止めることは出来なかった。 上総の諸城が攻略されるに及び、里見義弘は天正5年(1577年)、北条家から姫を迎える条件で北条家との和議を承諾し、両家の長きにわたる抗争は終結した(房相一和)。
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