織田信長との戦い
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永禄11年(1568年)に織田信長が足利義昭(義輝の弟)を擁立して上洛してくる際、松永久秀、及び彼と手を組む義継は、信長の上洛に協力した。天野忠幸は、信長の上洛は久秀と義継が招いた結果であり、後の彼らの末路を考慮すればこの判断が間違いであったことは言うまでもないと指摘する。 義継は久秀と共に降り河内北半国と若江城の領有を安堵された(抵抗した三人衆は居城を落とされ阿波国へ逃亡、義栄も上洛出来ないまま急死)。永禄12年(1569年)1月に阿波から畿内に上陸した三人衆が義昭を襲撃すると、畿内の信長派と合わせて三人衆を撃退(本圀寺の変)、3月に信長の仲介により義昭の妹を娶る。 その後しばらくは信長の家臣として三人衆など畿内の反信長勢力と戦っていたが(野田城・福島城の戦い)、元亀2年(1571年)頃から久秀と手を結んで信長に反逆し、信長包囲網の一角に加わった。元亀3年(1572年)には織田方の畠山昭高や細川昭元(いずれも信長の妹婿)と河内・摂津方面で戦い、勝利している。 しかし元亀4年(天正に改元、1573年)4月、信長最大の強敵であった武田信玄が病死すると織田軍の反攻が始まり、7月には義兄にあたる足利義昭が信長によって京都から追放され、室町幕府は滅んだ。
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織田信長との戦い
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元亀2年(1571年)、父・元就が死去すると、その跡を継いだ甥・毛利輝元(隆元の嫡男)を弟の隆景と共に補佐する役目を担った。 しかし元春に敗れた尼子勝久らは、中央で勢力を拡大していた織田信長を頼り、その援助を背景にして抵抗を続けるようになる。また、天正4年(1576年)に最後の室町幕府将軍である足利義昭が毛利氏を頼って備後国鞆に下向すると、織田氏との対立は決定的となる。天正5年(1577年)からは織田信長の命を受けた織田氏の重臣・羽柴秀吉率いる中国遠征軍が播磨国に侵攻する。元春はこれを迎撃し、天正6年(1578年)には尼子勝久や山中幸盛が籠る上月城を攻撃し、尼子勝久らは降伏し自刃。宿敵・山中幸盛も処刑され、尼子再興軍の動きを止めた(上月城の戦い)。 その後も元春は織田軍と各地で戦い続けたが、天正8年(1580年)には三木城が落城し、城主の別所長治は自害。そして備前国の宇喜多直家や伯耆国の南条元続が織田家に与し、豊後国からは大友宗麟が織田信長と呼応して毛利領に侵攻。天正9年(1581年)には因幡鳥取城で吉川一族の吉川経家が自刃するなど、毛利家は次第に劣勢となる。 天正10年(1582年)、清水宗治らが立て籠る備中高松城が羽柴秀吉に攻撃されたため、元春は輝元・隆景らと共に救援に赴いた(備中高松城の戦い)。しかし、秀吉の水攻めによって積極的な行動に出ることができず、また秀吉も元春らと戦うことで被害が拡大することを恐れて迎撃しなかったため、戦線は膠着状態となる。 そのような中、6月2日に織田信長が明智光秀の謀反で死亡した(本能寺の変)。羽柴秀吉は本能寺の変を毛利側に隠しつつ、「毛利家の武将のほとんどが調略を受けている」と毛利氏の外交僧・安国寺恵瓊に知らせる。これで毛利側は疑心暗鬼に陥り、和睦を受諾せざるを得なかった。結果、備中高松城は開城し、清水宗治らは切腹。織田軍は備中国から撤退した。なお本能寺の変を伝える報せが毛利方にもたらされたのは秀吉撤退の日の翌日で、紀伊の雑賀衆からの情報であったことが、吉川広家の覚書(案文)から確認できる。 『川角太閤記』によれば、元春はこの際追撃を主張したが、隆景に制止されたという。一方で、『吉川家文書』では、両名が追撃は無謀であり、失敗すれば毛利は次こそ滅ぼされると懸念し、光秀討伐に引き返してゆく秀吉を見逃したと記述されている。
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