本願寺との講和・織田信長との戦いとは? わかりやすく解説

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本願寺との講和・織田信長との戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 07:48 UTC 版)

上杉謙信」の記事における「本願寺との講和・織田信長との戦い」の解説

天正4年1576年2月以降毛利輝元庇護受けていた足利義昭が反信長勢力糾合し、同年5月頃からは義昭仲介甲斐武田氏相模後北条氏との甲相越三和試みられている。 同年4月謙信織田信長との戦い苦境に立たされていた石山本願寺顕如和睦交渉開始5月中旬講和承諾し成立させた。本願寺との交渉あたったのは、上杉側の山崎秀仙であった謙信本願寺講和した背景には、足利義昭毛利氏庇護下で鞆城落ち着き義昭自身謙信幕府再興援助求めたからだとされるまた、前年信長本願寺攻撃、さらに越前国侵攻したため、顕如越前一向宗徒は謙信援助求めていた。顕如謙信悩ませ続けていた一向一揆指導者であり、これにより上洛への道が開けた。甲相越一和成立しなかったものの、謙信本願寺との講和によって、信長包囲網築き上げられたのである。だが、謙信本願寺毛利輝元との同盟決めたことで、信長との同盟破綻し上杉氏織田氏以後敵対し続けた5月毛利輝元謙信上洛呼びかけたことで、6月謙信は輝元の叔父小早川隆景に対して来春には上洛するように伝えている。また、10月には足利義昭からも信長討伐求められており、謙信上洛を急ぐことになる。なお、この時期織田信長朝廷から内大臣に、次に右大臣任命されており、朝敵になったわけでもなく、単に織田政権室町幕府足利将軍家)との武家同士紛争に過ぎない

※この「本願寺との講和・織田信長との戦い」の解説は、「上杉謙信」の解説の一部です。
「本願寺との講和・織田信長との戦い」を含む「上杉謙信」の記事については、「上杉謙信」の概要を参照ください。

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