本願寺の門跡成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 15:43 UTC 版)
なお、門跡寺院の歴史の中で特殊な地位を占める存在に本願寺がある。浄土真宗の祖・親鸞(日野家出身)の直系子孫が継承した本願寺は歴史的経緯から妙香院、後に青蓮院門跡の傘下に置かれていた(本願寺がたびたび行った朝廷への献金も青蓮院を経由して申し出がされていた)。ところが、戦国時代に入ると専修寺との勢力争いが深刻になる中、証如・顕如が2代続けて摂関家九条家の猶子となる一方、青蓮院門跡が天文年間末期に一時的に空席(弘治年間に後継に決定した尊朝法親王も若年で門跡が職務が行い得ない)状態になったのを機に、青蓮院からの自立と専修寺への対抗を意図して摂家門跡の例に倣って門跡に加えて貰えるように朝廷への工作を行い、永禄2年(1559年)に本願寺を門跡に列する正親町天皇の勅許が出された。ところが、天正19年(1591年)に豊臣秀吉の命で本願寺が京都に移転し、2年後に顕如が亡くなった後に発生した後継問題を巡って東西本願寺に分裂すると、これまで本願寺が大坂にあったために黙認してきた京都の古くからの諸門跡寺院が本願寺の門跡としての資格に異論を唱えるようになる。更に禁中並公家諸法度の規定を厳密に解釈すると、本願寺は門跡の要件を満たしていない(日野家は名家格)とされる可能性もあった。江戸幕府は本願寺の門跡としての扱いを従前通りとしてその要件について判断を示すことはなかったが、後水尾天皇・霊元天皇は門跡としての特権を否認・制限する方針を示して東西本願寺と対立した。その結果、霊元院政下の元禄13年(1700年)頃になって、東西本願寺を諸門跡の最後尾、准門跡の格と位置づけられることになった。
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