(東)本願寺の裏方として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 17:09 UTC 版)
「大谷智子」の記事における「(東)本願寺の裏方として」の解説
降嫁の翌年、光暢の父大谷光演が巨額の負債を抱え、限定相続によって法主を譲職したため、急遽1925年(大正14年)10月に光暢が法主となったことに伴い、智子も法主夫人すなわち「お裏方」となった。同月には、大谷夫人法話会の会長として女性としてのあるべき姿を説いたが、内容は時代の制約から良妻賢母像を求めるものであり、現代の価値観・視点からは批判もある。 1938年(昭和13年)1月13日から夫の光暢が中国の華北・華中を慰問すると、智子も同月31日に長崎港を発ってから同地を訪問した。夫妻の慰問と時期を同じくして、現地では日中親善の機運が高まっていた。「皇軍傷病兵の慰問と日華仏教婦人会の連携」を目的とし、訪問ルートは、光暢の行った次に訪れるよう計画されていた。訪問日程に合わせ2月12日に天津で、2月15日に北平(現:北京)で、日華仏教婦人会の創立記念大会が催されている。 智子は、天津在住の実業家で信仰心の篤い平林千賀子の仲介で、北寧鉄路局長だった陳覚生の未亡人である陳鮑蕙と面会し、鮑蕙は夫の遺産で仏教精神の女学校を建設し、東本願寺に運営をゆだねたいと申し出た。こうして、同年9月には北京に北京覚生女子中等学校が創立され、智子は同校の名誉校長に就任した。日中提携の、中国人女子の高等教育学校に、日本の元皇族が関与していることは、現地でも大きな話題となった。1943年(昭和18年)10月、光暢と知子は満州国及び華北における開教地巡回を行った際、同月20日に智子は名誉校長として初めて覚生女子中を訪問し、日華提携の先駆けである同校に大きな期待を寄せた。 中国に設置された西欧のキリスト教系学校が宗教儀式に偏った文化的侵略の側面があったため、西洋式に変わる日本・中国式教育の覚生女子中は、年々生徒数が増加していたことからも現地の中国人にも大きな期待を寄せられていたと考えられている。幼稚園や日本語学校の併設など、徐々に規模が拡大していった。なお覚生女子中は、日本の敗戦後に廃校になっている。 また、鮑蕙との会談を機に、智子は、京都にも仏教精神に基づく女学校を建設する意欲を持ち、翌1939年(昭和14年)7月に学校法人光華女子学園の設立を文部省に届け出た。そして、1940年(昭和15年)4月に光華女子高等女学校が開校し、学園理事長には大谷瑩誠が、総裁には智子がそれぞれ就任した。さらに、大谷婦人会会長や全日本仏教婦人連盟初代会長を務めた。 また、合唱グループ「大谷楽苑」を結成し、仏教音楽の普及にも尽力した。智子自身も、1963年(昭和38年)3月9日に催された香淳皇后の還暦祝いのパーティーで、皇后と姉妹でクラシック歌曲の重唱を披露している。 1960年代以降、大谷家と改革派の主導する真宗大谷派内局とに生じた紛争(お東騒動)においては、一貫して四男・大谷暢道(のちの大谷光道)を支持し、この紛争に重要な影響を与えたともいわれる。 1989年(平成元年)11月15日、病の為に逝去。享年84(満83歳没) 。 10代前半から短歌を詠み、83歳で亡くなるまで約2000首を残した。2008年(平成20年)、歌集「白萩の道」が出版された。
※この「(東)本願寺の裏方として」の解説は、「大谷智子」の解説の一部です。
「(東)本願寺の裏方として」を含む「大谷智子」の記事については、「大谷智子」の概要を参照ください。
- 本願寺の裏方としてのページへのリンク