本領安堵とは? わかりやすく解説

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ほんりょう‐あんど〔ホンリヤウ‐〕【本領安×堵】

読み方:ほんりょうあんど

中世本領領有権そのまま幕府守護認めたこと。安堵


本領安堵

読み方:ホンリョウアンド(honryouando)

本領領有権幕府従来通り認めること。


安堵

(本領安堵 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/15 08:35 UTC 版)

安堵(あんど)とは、日本史において、主人が従者との主従関係や従者のもつ所領知行を承認する行為を指す概念[1]。特に鎌倉後期以降は、その支配領域内人々の規制、所領知行の公的な認定を意味した[1]

概要

「安堵」という言葉は『史記』(高祖本紀)に見られ、日本でも漢語表現として古くから用いられてはいたが、権利保証に関する意味での「安堵」の語が生じたのは平安時代後期以後と考えられている。この時代には社会の不安定によって私有財産侵害の例がしばしば発生していた。

そのため、土地などの財産所有者が実力者に自己の財産に対する権利の保証を求め、実力者は財産の保護を約束して所有者に精神的安堵を与える代わりに所有者に対して一定の奉仕を求めた。この権利保証と代償としての奉仕が恒常的になることによって、実力者と所有者の間に主従関係に発展した。特に初期の武家法ではこの関係が重要視され、権利保証と代償としての奉仕はそれぞれ御恩と奉公の関係に転換していくことになる。

武家社会における安堵

鎌倉時代

御恩と奉公の体系の上に成立していた鎌倉幕府にとって、安堵は御家人の忠誠をつなぎとめるために重要な手段であった。鎌倉幕府の安堵は主として所領の安堵を指し、その対象としては土地の売買、相続、和与、証文紛失などが挙げられる。安堵は目的に応じて、本領安堵、遺跡安堵、和与安堵、当知行地安堵、寄進地安堵、沽却地安堵、買得安堵、譲与安堵などに分けられるが、1件の事案中に複数の安堵が含まれる場合も存在していた。

特に中核となるのは、主従関係の構築に際して開発相伝・根本私領(本領)の安堵である本領安堵(何らかの事情で本領を喪失した後に本領を回復した時の安堵も含まれる)と相続の発生によって相続人による土地の相続の安堵である遺跡安堵であった。遺跡安堵は継目安堵とも称した。

何らかの事情で所領の権利が移動した場合、新しい権利者は申文とともに前の権利者などからの譲状などを幕府に提出し、安堵奉行が書状の内容、知行の実態(不知行になっていないか)、この安堵に異論が持つ不服人の有無などを確認した上で各種安堵状(御教書・判物・下文など)発給や譲状に直接安堵の旨を加筆した外題安堵が行われ、問題がある場合には所務沙汰に準じて引付などの訴訟機関において審議が行われた。

初期の安堵は必ずしも既判力を持つものとは言えず、安堵の実施も自体も抑制的であった。これは旧所有者が所有を回復したと申請した結果出される本領安堵と現所有者が当知行の保証を求める当知行安堵のように安堵が競合すると新たな紛争要因になりかねない事態も予想されたためであり、土地関係の不安定化は政権の不安定化を招く危険があったからである。実際に御成敗式目では第7条で本領安堵を同じく第43条では当知行安堵に制約を加える内容が入っており、安堵状が発給された場合でもその効果は主君(保証者)と従者(権利者)の間の主従関係(主君が従者を必要とし、従者が主君に必要とされている現状)の確認を越えるものではなかったとみられる[2]

しかし、1309年(延慶2年)以後には外題安堵に既判力が認められ、また買得安堵を得た所領などが徳政令の対象外とされるなど、法的な権限強化が強まり、従来は当知行(実際の知行者)優先の法理から外題安堵所持者優先へと移行するようになった。

室町時代

室町幕府では南北朝時代から譲与・相伝・公験等に基づく安堵が中心だったが、応永年間には当知行安堵が増加して原則化した[1]

  • 譲与・相伝等に基づく安堵
    所領・所職の相続・移転・処分に基づく安堵[1]。室町時代を通じてみられた[1]
  • 公験に基づく安堵
    所領・所職の知行の権利について朝廷や幕府等が発給した文書(公験)に基づく安堵[1]
  • 本知行に基づく安堵
    根本所領や旧領である本領・本知行に基づく安堵[1]
  • 当知行安堵(当知行地安堵)
    応永年間には当知行安堵が増加して原則化した[1]。当知行安堵の文書の様式には「相伝・当知行」に基づくものや「公験」と「当知行」に基づくものもあり、「相伝」や「公験」に基づく安堵としての側面も有するが、「当知行」であることが明記されるようになり様式に変化がみられる[1]
  • 当主の申請に基づく相続安堵
    奉公衆や国人衆が内部で相続人を定め、将軍の認定を受けることで相続を円滑に進める目的があったとされる[1]

江戸時代

江戸時代に入ると、安堵の方法が大きく変化する。それはこれまでは違って本領概念を認めず、形式上は領主の死によって所領は一旦公儀に戻され、相続人からの申請によって相続人への家督相続が認められた場合に限って同一の所領に再封することとされ、所領の安堵は将軍もしくは主君1代限りで有効であり、御代始の度に1から安堵を得る必要が生じたことによる。

これによって継目安堵の意味や発生要因にも大きな変化が見られた。すなわち、従来は家臣の家で家督相続が行われた場合に主君がその安堵を行う遺跡安堵と同じ意味のものであったが、江戸時代のそれは主君の家で家督相続が行われた場合に前の当主が家臣に与えた安堵が効力を失って新しい当主による安堵が行われることを指すようになった。

江戸幕府の場合、1664年(寛文4年)に実施された寛文印知によって仕法が定まることになるが、大名領(領分)・旗本領(知行所)・公家領(禁裏料)・寺社領(朱印地・黒印地)のそれぞれの格式によって、安堵状の形式が定められていた。例えば、大名・公家・寺社の場合は格式によって将軍の花押が記された領知判物を与えられる家と朱印状による領知朱印状が下される家に分けられていた。

将軍の交替時には一旦古い安堵状を幕府に返還した上で新しい安堵状が下される時に一緒に返還された(御朱印改)。

御朱印改は実施前に病死した6代家宣・7代家継及び将軍職を免ぜられた15代慶喜の3名を除く12代の将軍がいずれも実施している(ただし、寛文印知を実施した徳川家綱よりも以前の将軍による安堵状の書式は不定であった)。一方、大名から家臣や寺社への安堵は原則として大名の判物か黒印状によって行われていた。

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j 松園潤一朗「室町幕府安堵の様式変化について」『人文』第8巻、学習院大学人文科学研究所、2010年3月、268-248頁、hdl:10959/1337ISSN 1881-7920CRID 10502826779114981122023年6月15日閲覧 
  2. ^ 近藤成一 「本領安堵と当知行安堵」(初出:石井進 編『都と鄙の中世史』(吉川弘文館、1992年)/所収:近藤『鎌倉時代政治構造の研究』(校倉書房、2016年) ISBN 978-4-7517-4650-9

参考文献

関連項目


本領安堵

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/29 19:04 UTC 版)

関ヶ原の戦いの戦後処理」の記事における「本領安堵」の解説

関ヶ原西軍付きながら、幸運に所領安堵された大名以下の通りであるが、特に目立つのが丹後田辺城戦い従軍した大名であり、全体のほとんどを占める。田辺城細川忠興の父である細川幽斎籠城しており、小野木重勝大将として丹波但馬豊後大名攻撃した。だが攻撃軍には谷衛友ら幽斎の歌道弟子多く一部大名積極的に攻撃しなかった。これを城内より観察した幽斎が戦後家康伝え取り成され大名本領安堵されている。ただし小野木は細川忠興怒りを買い本戦終了後福知山城攻められ自害追い込まれ総大将責め負い自刃。一旦許され斎村政広鳥取城攻略での落度により自刃した。斎村東軍寝返った武将では唯一の死亡者である。 このほか関ヶ原本戦果敢な退却戦を見せた島津義弘武備恭順姿勢交渉に当たり、根負けし家康から本領安堵を勝ち取った鍋島直茂そもそも東軍に付く予定が、嫡男である鍋島勝茂愛知川西軍関所阻まれ西軍付いたため、家康頻繁に音信をとって内通し勝茂の進軍中止させた。本戦後は勝茂を直ち家康謝罪させ、筑後平定条件に本領安堵を許された。生駒親正蜂須賀家政小出吉政それぞれ嫡男二男東軍派遣しており、息子達功績所領安堵されている。宗義智については、李氏朝鮮との国交回復をにらむ家康深慮によって詰問留めている。 また、豊臣秀頼親衛隊である大坂城七手組武将立場上、大坂城残った者や実際に出馬した人物含めて全員西軍加担したと言える状況であったが、秀頼の側近ということもあってか処分され人物は居なかった。 武将領地石高(石)合戦での動向備考青木一重 摂津豊島 10,000 大坂城留守居 石高豊臣領に含まれる七手組元徳家臣生駒親正 讃岐高松 171,800 丹後田辺城攻撃 自身病気偽り出陣せず。家臣大塚采女田辺城攻撃派遣嫡男一正東軍に付かせ、本戦での功により所領安堵高松蟄居する。 伊東祐兵 日向飫肥 57,000 近江大津城攻撃 大坂病床伏せており、身動き取れずやむなく西軍参加表明し家臣大津城攻撃派遣する嫡男・祐慶を日向東軍として活動させ所領安堵伊東長実 備中岡田 10,300 近江大津城攻撃 石高豊臣領に含まれる七手組大津城攻撃検使役。本戦参加していたという説もある。密かに西軍挙兵徳川家康報告織田信包 丹波柏原 36,000 丹後田辺城攻撃 老犬斎。子・信重は東軍片桐貞隆 播磨国10,000 近江大津城攻撃 兄・且元は徳川家豊臣家仲介尽力大和小泉移封川勝秀氏 丹波国内 3,500 丹後田辺城攻撃 本戦後、細川忠興と共に小野木重勝篭る丹波福知山城攻撃参加丹波何鹿郡から丹波氷上郡船井郡転封桑山一晴 紀伊和歌山 20,000 近江大津城攻撃 叔父・元晴は東軍10月に自領に戻り祖父・重晴と共に西軍堀内氏善新宮城攻略した功により赦される。 小出吉政 但馬出石 60,000 丹後田辺城攻撃 弟・秀家が東軍付きその本戦での功により所領安堵小出秀政 和泉岸和田 30,000 近江大津城攻撃 家臣大津城攻撃派遣二男・秀家が東軍付きその本戦での功により所領安堵郡宗保 美濃国内 3,000 近江大津城攻撃 石高豊臣領に含まれる大津城攻撃軍監島津義弘 薩摩鹿児島 609,000 本戦 井伊直政周旋により、島津義久継嗣忠恒(義弘実子)に対し安堵杉原長房 但馬豊岡 20,000 丹後田辺城攻撃 縁戚である北政所浅野長政からの嘆願よる。 宗義智 対馬厳原 10,000 近江大津城攻撃 家臣柳川調信大津城攻撃派遣家康から詰問されたが所領安堵建部光重 摂津尼崎 700 伊勢安濃津城攻撃 石高豊臣領に含まれる豊臣尼崎3万石代官西軍軍事行動積極的に加わるも池田輝政取り成し本領尼崎代官職共々安堵谷衛友 丹波山家 16,000 丹後田辺城攻撃 本戦後、細川忠興と共に小野木重勝篭る丹波福知山城攻撃参加歌道師匠である細川幽斎取り成しで本領安堵。 津軽信建 陸奥堀越 (45,000) 大坂城留守居 父・為信は東軍石田重成三成二男)を助け領内匿う中川秀成 豊後竹田 70,000 丹後田辺城攻撃 家臣中川右衛門田辺城攻撃派遣本戦の後、西軍属した臼杵城太田一吉攻め立て所領安堵長谷川宗仁 美濃国内など (10,000) 丹後田辺城攻撃 家督は既に当時子・守知が相続親子ともども西軍も守知は東軍内通し所領安堵蜂須賀家政 阿波徳島 173,000 北国守備 自身病気偽り出陣せず。家臣高木法斎北国口に派遣嫡男・至鎮を東軍に付かせ、本戦での功により所領安堵速水守久 (不明) 15,000 近江大津城攻撃 石高豊臣領に含まれる七手組筆頭大津城攻撃検使役。 別所吉治 但馬八木 15,000 丹後田辺城攻撃 本戦後、細川忠興と共に小野木重勝篭る丹波福知山城攻撃参加。弟・孫次郎東軍堀田盛重 (不明) 10,000 丹後田辺城攻撃 石高豊臣領に含まれる七手組伏見城攻撃軍監務めた後、田辺城攻囲に加わる。密かに西軍挙兵徳川家康報告前田茂勝 丹波亀山 (50,000) 丹後田辺城攻撃 父・玄以は中立を通す。丹後田辺城派遣され後陽成天皇勅使一行供奉開城交渉に当たる。 毛利高政 豊後国20,000 丹後田辺城攻撃 藤堂高虎取り成し安堵。のち豊後佐伯転封

※この「本領安堵」の解説は、「関ヶ原の戦いの戦後処理」の解説の一部です。
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