安堵
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安堵(あんど)とは、日本史において、主人が従者との主従関係や従者のもつ所領知行を承認する行為を指す概念[1]。特に鎌倉後期以降は、その支配領域内人々の規制、所領知行の公的な認定を意味した[1]。
概要
「安堵」という言葉は『史記』(高祖本紀)に見られ、日本でも漢語表現として古くから用いられてはいたが、権利保証に関する意味での「安堵」の語が生じたのは平安時代後期以後と考えられている。この時代には社会の不安定によって私有財産侵害の例がしばしば発生していた。
そのため、土地などの財産所有者が実力者に自己の財産に対する権利の保証を求め、実力者は財産の保護を約束して所有者に精神的安堵を与える代わりに所有者に対して一定の奉仕を求めた。この権利保証と代償としての奉仕が恒常的になることによって、実力者と所有者の間に主従関係に発展した。特に初期の武家法ではこの関係が重要視され、権利保証と代償としての奉仕はそれぞれ御恩と奉公の関係に転換していくことになる。
武家社会における安堵
鎌倉時代
御恩と奉公の体系の上に成立していた鎌倉幕府にとって、安堵は御家人の忠誠をつなぎとめるために重要な手段であった。鎌倉幕府の安堵は主として所領の安堵を指し、その対象としては土地の売買、相続、和与、証文紛失などが挙げられる。安堵は目的に応じて、本領安堵、遺跡安堵、和与安堵、当知行地安堵、寄進地安堵、沽却地安堵、買得安堵、譲与安堵などに分けられるが、1件の事案中に複数の安堵が含まれる場合も存在していた。
特に中核となるのは、主従関係の構築に際して開発相伝・根本私領(本領)の安堵である本領安堵(何らかの事情で本領を喪失した後に本領を回復した時の安堵も含まれる)と相続の発生によって相続人による土地の相続の安堵である遺跡安堵であった。遺跡安堵は継目安堵とも称した。
何らかの事情で所領の権利が移動した場合、新しい権利者は申文とともに前の権利者などからの譲状などを幕府に提出し、安堵奉行が書状の内容、知行の実態(不知行になっていないか)、この安堵に異論が持つ不服人の有無などを確認した上で各種安堵状(御教書・判物・下文など)発給や譲状に直接安堵の旨を加筆した外題安堵が行われ、問題がある場合には所務沙汰に準じて引付などの訴訟機関において審議が行われた。
初期の安堵は必ずしも既判力を持つものとは言えず、安堵の実施も自体も抑制的であった。これは旧所有者が所有を回復したと申請した結果出される本領安堵と現所有者が当知行の保証を求める当知行安堵のように安堵が競合すると新たな紛争要因になりかねない事態も予想されたためであり、土地関係の不安定化は政権の不安定化を招く危険があったからである。実際に御成敗式目では第7条で本領安堵を同じく第43条では当知行安堵に制約を加える内容が入っており、安堵状が発給された場合でもその効果は主君(保証者)と従者(権利者)の間の主従関係(主君が従者を必要とし、従者が主君に必要とされている現状)の確認を越えるものではなかったとみられる[2]。
しかし、1309年(延慶2年)以後には外題安堵に既判力が認められ、また買得安堵を得た所領などが徳政令の対象外とされるなど、法的な権限強化が強まり、従来は当知行(実際の知行者)優先の法理から外題安堵所持者優先へと移行するようになった。
室町時代
室町幕府では南北朝時代から譲与・相伝・公験等に基づく安堵が中心だったが、応永年間には当知行安堵が増加して原則化した[1]。
- 譲与・相伝等に基づく安堵
- 公験に基づく安堵
- 所領・所職の知行の権利について朝廷や幕府等が発給した文書(公験)に基づく安堵[1]。
- 本知行に基づく安堵
- 根本所領や旧領である本領・本知行に基づく安堵[1]。
- 当知行安堵(当知行地安堵)
- 当主の申請に基づく相続安堵
- 奉公衆や国人衆が内部で相続人を定め、将軍の認定を受けることで相続を円滑に進める目的があったとされる[1]。
江戸時代
江戸時代に入ると、安堵の方法が大きく変化する。それはこれまでは違って本領概念を認めず、形式上は領主の死によって所領は一旦公儀に戻され、相続人からの申請によって相続人への家督相続が認められた場合に限って同一の所領に再封することとされ、所領の安堵は将軍もしくは主君1代限りで有効であり、御代始の度に1から安堵を得る必要が生じたことによる。
これによって継目安堵の意味や発生要因にも大きな変化が見られた。すなわち、従来は家臣の家で家督相続が行われた場合に主君がその安堵を行う遺跡安堵と同じ意味のものであったが、江戸時代のそれは主君の家で家督相続が行われた場合に前の当主が家臣に与えた安堵が効力を失って新しい当主による安堵が行われることを指すようになった。
江戸幕府の場合、1664年(寛文4年)に実施された寛文印知によって仕法が定まることになるが、大名領(領分)・旗本領(知行所)・公家領(禁裏料)・寺社領(朱印地・黒印地)のそれぞれの格式によって、安堵状の形式が定められていた。例えば、大名・公家・寺社の場合は格式によって将軍の花押が記された領知判物を与えられる家と朱印状による領知朱印状が下される家に分けられていた。
将軍の交替時には一旦古い安堵状を幕府に返還した上で新しい安堵状が下される時に一緒に返還された(御朱印改)。
御朱印改は実施前に病死した6代家宣・7代家継及び将軍職を免ぜられた15代慶喜の3名を除く12代の将軍がいずれも実施している(ただし、寛文印知を実施した徳川家綱よりも以前の将軍による安堵状の書式は不定であった)。一方、大名から家臣や寺社への安堵は原則として大名の判物か黒印状によって行われていた。
脚注
- ^ a b c d e f g h i j 松園潤一朗「室町幕府安堵の様式変化について」『人文』第8巻、学習院大学人文科学研究所、2010年3月、268-248頁、hdl:10959/1337、ISSN 1881-7920、CRID 1050282677911498112、2023年6月15日閲覧。
- ^ 近藤成一 「本領安堵と当知行安堵」(初出:石井進 編『都と鄙の中世史』(吉川弘文館、1992年)/所収:近藤『鎌倉時代政治構造の研究』(校倉書房、2016年) ISBN 978-4-7517-4650-9)
参考文献
- 永原慶二「安堵」『社会科学大事典 1』(鹿島研究所出版会 1968年) ISBN 978-4-306-09152-8
- 新田英治「安堵」『国史大辞典 1』(吉川弘文館 1979年) ISBN 978-4-642-00501-2
- 笠松宏至/橋本政宣「安堵」『日本史大事典 1』(平凡社 1992年) ISBN 978-4-582-13101-7
- 木内正廣「安堵」『日本歴史大事典 1』(小学館 2000年) ISBN 978-4-095-23001-6
- 上杉和彦「安堵」『日本中世史事典』(朝倉書店 2008年) ISBN 978-4-254-53015-5
関連項目
本領安堵
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/29 19:04 UTC 版)
「関ヶ原の戦いの戦後処理」の記事における「本領安堵」の解説
関ヶ原で西軍に付きながら、幸運にも所領を安堵された大名は以下の通りであるが、特に目立つのが丹後田辺城の戦いに従軍した大名であり、全体のほとんどを占める。田辺城は細川忠興の父である細川幽斎が籠城しており、小野木重勝を大将として丹波・但馬・豊後の大名が攻撃した。だが攻撃軍には谷衛友ら幽斎の歌道の弟子が多く、一部の大名は積極的に攻撃しなかった。これを城内より観察した幽斎が戦後家康に伝え、取り成された大名は本領を安堵されている。ただし小野木は細川忠興の怒りを買い本戦終了後に福知山城を攻められ自害に追い込まれ、総大将の責めを負い自刃。一旦許された斎村政広は鳥取城攻略での落度により自刃した。斎村は東軍に寝返った武将では唯一の死亡者である。 このほか関ヶ原本戦で果敢な退却戦を見せた島津義弘は武備恭順の姿勢で交渉に当たり、根負けした家康から本領安堵を勝ち取った。鍋島直茂はそもそも東軍に付く予定が、嫡男である鍋島勝茂が愛知川で西軍の関所に阻まれ西軍に付いたため、家康と頻繁に音信をとって内通し勝茂の進軍を中止させた。本戦後は勝茂を直ちに家康に謝罪させ、筑後平定を条件に本領安堵を許された。生駒親正・蜂須賀家政・小出吉政はそれぞれ嫡男や二男を東軍に派遣しており、息子達の功績で所領安堵されている。宗義智については、李氏朝鮮との国交回復をにらむ家康の深慮によって詰問に留めている。 また、豊臣秀頼の親衛隊である大坂城七手組の武将も立場上、大坂城に残った者や実際に出馬した人物を含めて全員が西軍に加担したと言える状況であったが、秀頼の側近ということもあってか処分された人物は居なかった。 武将名領地石高(石)合戦での動向備考青木一重 摂津豊島 10,000 大坂城留守居 石高は豊臣領に含まれる。七手組。元徳川家臣。 生駒親正 讃岐高松 171,800 丹後田辺城攻撃 自身は病気と偽り出陣せず。家臣・大塚采女を田辺城攻撃に派遣。嫡男・一正を東軍に付かせ、本戦での功により所領安堵。高松で蟄居する。 伊東祐兵 日向飫肥 57,000 近江大津城攻撃 大坂で病床に伏せており、身動きが取れずやむなく西軍へ参加を表明し、家臣を大津城攻撃に派遣するも嫡男・祐慶を日向で東軍として活動させ所領安堵。 伊東長実 備中岡田 10,300 近江大津城攻撃 石高は豊臣領に含まれる。七手組。大津城攻撃検使役。本戦に参加していたという説もある。密かに西軍の挙兵を徳川家康に報告。 織田信包 丹波柏原 36,000 丹後田辺城攻撃 老犬斎。子・信重は東軍。 片桐貞隆 播磨国内 10,000 近江大津城攻撃 兄・且元は徳川家と豊臣家の仲介に尽力。大和小泉に移封。 川勝秀氏 丹波国内 3,500 丹後田辺城攻撃 本戦後、細川忠興と共に小野木重勝の篭る丹波福知山城攻撃に参加。丹波何鹿郡から丹波氷上郡・船井郡に転封。 桑山一晴 紀伊和歌山 20,000 近江大津城攻撃 叔父・元晴は東軍。10月に自領に戻り祖父・重晴と共に西軍の堀内氏善の新宮城を攻略した功により赦される。 小出吉政 但馬出石 60,000 丹後田辺城攻撃 弟・秀家が東軍に付き、その本戦での功により所領安堵。 小出秀政 和泉岸和田 30,000 近江大津城攻撃 家臣を大津城攻撃に派遣。二男・秀家が東軍に付き、その本戦での功により所領安堵。 郡宗保 美濃国内 3,000 近江大津城攻撃 石高は豊臣領に含まれる。大津城攻撃の軍監役 島津義弘 薩摩鹿児島 609,000 本戦 井伊直政の周旋により、島津義久の継嗣忠恒(義弘の実子)に対し安堵。 杉原長房 但馬豊岡 20,000 丹後田辺城攻撃 縁戚である北政所や浅野長政からの嘆願による。 宗義智 対馬厳原 10,000 近江大津城攻撃 家臣・柳川調信を大津城攻撃に派遣。家康から詰問されたが所領安堵。 建部光重 摂津尼崎 700 伊勢安濃津城攻撃 石高は豊臣領に含まれる。豊臣領尼崎3万石の代官。西軍の軍事行動に積極的に加わるも池田輝政の取り成しで本領、尼崎代官職共々安堵。 谷衛友 丹波山家 16,000 丹後田辺城攻撃 本戦後、細川忠興と共に小野木重勝の篭る丹波福知山城攻撃に参加。歌道の師匠である細川幽斎の取り成しで本領安堵。 津軽信建 陸奥堀越 (45,000) 大坂城留守居 父・為信は東軍。石田重成(三成二男)を助け、領内に匿う。 中川秀成 豊後竹田 70,000 丹後田辺城攻撃 家臣・中川平右衛門を田辺城攻撃に派遣。本戦の後、西軍に属した臼杵城の太田一吉を攻め立て所領安堵。 長谷川宗仁 美濃国内など (10,000) 丹後田辺城攻撃 家督は既に当時子・守知が相続。親子ともども西軍も守知は東軍に内通し所領安堵。 蜂須賀家政 阿波徳島 173,000 北国口守備 自身は病気と偽り出陣せず。家臣、高木法斎を北国口に派遣。嫡男・至鎮を東軍に付かせ、本戦での功により所領安堵。 速水守久 (不明) 15,000 近江大津城攻撃 石高は豊臣領に含まれる。七手組筆頭。大津城攻撃検使役。 別所吉治 但馬八木 15,000 丹後田辺城攻撃 本戦後、細川忠興と共に小野木重勝の篭る丹波福知山城攻撃に参加。弟・孫次郎は東軍。 堀田盛重 (不明) 10,000 丹後田辺城攻撃 石高は豊臣領に含まれる。七手組。伏見城攻撃の軍監を務めた後、田辺城攻囲に加わる。密かに西軍の挙兵を徳川家康に報告。 前田茂勝 丹波亀山 (50,000) 丹後田辺城攻撃 父・玄以は中立を通す。丹後田辺城に派遣された後陽成天皇の勅使一行に供奉。開城交渉に当たる。 毛利高政 豊後国内 20,000 丹後田辺城攻撃 藤堂高虎の取り成しで安堵。のち豊後佐伯に転封。
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