平家政権下での更なる不安定さ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/07 02:10 UTC 版)
「武士団」の記事における「平家政権下での更なる不安定さ」の解説
その不安定さは平家のクーデター以降いよいよピークに達する。平家は数十ヵ国の知行国主となるとともに、平家の家人となった武士団を通じて、他の武士団・開発領主を圧迫する。それは千葉常胤にとっては、1161年(永暦2年)正月の平家を後ろ盾とした佐竹義宗の相馬御厨強奪として現れる。佐竹氏と、千葉介、上総介一族との対立はここに始まり、それが解消するのは、1180年の源頼朝の旗揚げに、千葉介、上総介一族が合流し、「富士川の戦い」に平家を破ったあと、転じて常陸に佐竹氏を攻めて敗走させるまで待たなければならなかった。 千葉介、上総介一族が、頼朝に加担したのは、『吾妻鏡』が美化して伝えるような、両氏が代々源氏の家人であったからではなく、平家と結んだ下総の藤原氏、そして常陸の佐竹氏の侵攻に対して、頼朝を担ぐことによってそれを押し返し、奪い取られた自領を復活する為の起死回生の掛けであった。『吾妻鏡』には書かれていない相馬御厨での経緯を見れば、特に千葉常胤にとって、源義朝は「御恩」を感じるような相手ではなかったことは明らかである。 1180年(治承4年)の源頼朝の旗挙げの後、その父源義朝が暴力的に奪い取ろうとしたものを、源頼朝は「本領安堵」した。それが頼朝の元への関東武士団の結束力の源泉であった。関東においては、「武家の棟梁」は、少なくとも頼朝の以前には居なかったと言える。そして頼朝が、ある意味勝手に「本領安堵」の下文(くだしぶみ)を出すだけで、それを「御恩」として「奉公」に励むほど、彼らの所領は危ういものであったと言える。
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