本願寺との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/11 10:26 UTC 版)
永享6年(1434年)、浄興寺住職周観が上洛し、本願寺7世存如の許しを得て親鸞の「愚禿鈔」を書写している。文明11年(1479年)、本願寺8世蓮如が浄興寺を参詣した。文禄元年(1592年)には浄興寺の親鸞の頂骨が本願寺(現在の西本願寺)に分骨された。慶長4年(1599年)、本願寺の東西分派に際して東本願寺に与した。東本願寺から「同格一門」の待遇を受け、後に「中本山」の格式を認められる。万治3年(1660年)には親鸞の頂骨、本願寺3世覚如以下七代の門主の遺骨を東本願寺に分骨している。享保7年(1722年)以降、高田掛所(現在の真宗大谷派高田別院)設置問題を機に東本願寺との対立が表面化する。享保年間末には「同格一門」の待遇を剥奪され、19世住職一周は掛所設置反対を理由に蟄居を命ぜられた。元文3年(1738年)、20世住職真観は地位回復を願い出るが拒絶され、本願寺白書院にて抗議の自決を遂げる。この後、一時衰退するが高田藩主榊原家の仲介により東本願寺と和睦し復興を遂げる。
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