蓮如との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/24 04:19 UTC 版)
経覚は宗派こそ違ったものの、母方の実家である本願寺との関係が深く、7世存如が死去した際には「50年来の知己で無双の恩人あった」と述べて本願寺に弔問の使者を送り、後日自身で大谷本願寺を弔問している。 存如の庶子として生まれた蓮如は幼い頃に経覚の元に預けられ、彼の元で修学しており、その後も師弟として互いの大事には支援しあう仲であった。また、大乗院の荘園で経覚の支配下にあった越前河口庄細呂木郷(細呂宜郷とも)の代官に本願寺の末寺である和田本覚寺の住持蓮光を任じていた。 寛正の法難で延暦寺からの迫害を受けて本願寺存亡の危機に直面した蓮如が真っ先に相談に訪れたのも経覚の元であった。経覚は蓮光に管理を任せていた河口庄の吉崎へ移り再起を図る事を提案する。越前一帯には浄土真宗やそれ以外の浄土教系の諸宗派の信者が多く住んでいるために蓮如の布教には最適である事、逆に経覚の立場からしてもその頃越前の守護代であった甲斐氏と朝倉孝景の争いの影響で両氏による荘園の横領が続いており、信頼のおける甥分である蓮如に河口庄の代官的な役割を期待していたとされる。 蓮如は経覚の助言と蓮光の支援を受けて吉崎に吉崎御坊を建立してここで布教活動を開始する。一方、河口庄の年貢が経覚の元に無事に届くようにという配慮も欠かす事はなかった。本願寺が北陸地方において一大勢力に成長するのは経覚の死後程無くの事であった。
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