各宗派への波及とは? わかりやすく解説

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各宗派への波及

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 00:52 UTC 版)

太子信仰」の記事における「各宗派への波及」の解説

左:釈迦三尊十六羅漢像。東京国立博物館最下部の左に太子勝鬘経講讃像、右に空海描かれる叡尊流れを汲む作例。右:妙源寺光明本尊のうち右幅。初期真宗用いられ三幅一舗の光明本尊作例中心に描かれるのは下から太子源信法然日本浄土宗法統を示す。太子周囲には四随臣描かれる平安時代前期には、四天王寺五重塔の初層壁面多く高僧と共に太子肖像三尊形式描かれていた事が記録残っており、日本仏教開祖として位置づけられるようになった考えられるまた、現存最古(11世紀後半)孝養像とされる一乗寺の「聖徳太子および天台高僧像」では、太子袈裟姿で描かれている。中世に至ると太子信仰宗派超え多く宗派が自らを太子系譜位置づけて行くようになる。 『伝述一心戒文によれば天台宗開祖最澄太子玄孫自称していたとされる延暦寺四天王寺との関わり強めると、太子観音同一視するようになり太子信仰盛んになっていく。鎌倉時代初頭天台座主慈円は、自らの思想原理太子求めて末法の世仏法により王法を守る」ことが摂関家出である自らの務め自認していた。慈円四天王寺別当13年務めているが、その間実家である九条家繁栄九条立子安産四天王寺聖霊院で祈願している。 日蓮宗日蓮も、慧思後身説救世観音言及するなど、太子崇敬していた。特に『法華経』を将来し、日本仏教興隆の礎を築いた高く評価するが、その一方で太子の『法華経義疏』には批判向けている。 真言宗では平安時代末期から太子信仰影響現れる12世紀成立の『水鏡』では、空海聖徳太子生まれ変わりとする説が記されており、『目録抄』でもこれを紹介している。それによれば転生インド勝鬘夫人起点とし、慧思太子空海へと転生した」とあり、慧思後身説援用している。また、12世紀初頭成立の『東大寺要録』では、真言宗小野流祖師である聖宝太子後身としている。それによれば太子聖武天皇転生し聖宝生まれ変わった」としており、東大寺でも真言宗通して太子信仰影響があったと言える東大寺との関係では重源挙げられる13世紀成立の『百錬抄によれば建仁3年(1203年)に太子廟が荒らされ太子の歯が盗まれるという事件が起きた。この事件を『目録抄』は「犯人捕らえられ盗まれた歯は重源の手渡って東大寺再建勧進用いられた」と、より詳細記している。『目録抄』の伝承真偽定かではないが、重源太子廟に阿弥陀堂建立した記録残っている。 戒律の復興努めた叡尊は、太子廟や法隆寺東伽藍多くの人に菩薩戒授けた正嘉2年(1258年)には、法隆寺聖霊院3日3晩開眼供養行い夢告得た記している。弘長2年(1262年)には鎌倉招かれ北条時頼依頼され聖徳太子像開眼供養などを行っている。叡尊西大寺にて、2月5月9月22日太子講の日と定めて実施したほか、旅先でも太子講広めたとされている。真言宗僧でもあった叡尊太子信仰釈迦(舎利)信仰大師信仰融合させて、南無仏太子像釈迦三尊十六羅漢像、扉の左右に大師太子配した舎利厨子などを製作したが、これらの模作多数流通した。その高弟である忍性太子信仰傾倒した京都東山太子堂建立し四天王寺正門には石鳥居建立している。また、律宗教団復興させた寺には聖徳太子創建伝承をもつ寺が多い。 浄土宗西山派の祖証空は、叡福寺建暦元年(1211年)に舎利容器奉納しその後四天王寺参詣して夢中で不断念仏を行うと太子顕現したという伝承がある。 浄土真宗親鸞太子崇敬したことで知られる親鸞詠んだ和讃540首あまりだが、そのうち4割近い191首が太子和讃であり、太子を「和国教主」と讃えている。親鸞師事した法然には太子信仰見られず、親鸞詠んだ和讃から四天王寺系の影響みられるまた、親鸞建仁元年(1201年)に六角堂百日参篭行いいわゆる太子夢告」を得て法然元に参じた事も知られている。ただし、こうした親鸞による太子信仰はその晩年顕著になったと考えられている。親鸞建保2年(1214年)は常陸国稲田行き太子像を安置した堂を結んで念仏広めたが、高島幸次はこの東国布教親鸞太子信仰傾倒するきっかけであった推測する鎌倉時代末期浄土真宗行われていた絵解き(後述)では、太子伝に法然親鸞添えて描かれており、律宗教団布教により太子信仰根付いていた東国太子鑚仰足掛かりとして真宗教義広めていったと考えられる南北朝時代記録では、真宗寺院の本尊はほとんど太子像であると記録されており、近世には親鸞救世観音同一視した上で蓮如との関係強調するようになっていく。現在でも浄土真宗本願寺派寺院において阿弥陀如来の脇に太子像を安置する事が多い。 時宗一遍は、繰り返し四天王寺参拝している。特に弘安9年(1286年)に叡福寺参篭し奇端を得た事は『一遍聖絵』でも知られており、また著書聖徳太子御廟瑞相舎利事』では、太子帰依することが重要と説いている。 禅宗では臨済宗虎関師錬挙げられる鎌倉時代片岡山飢人伝説仙人達磨化身とする説が広まり達磨寺建立されたが、これを広めたのが虎関師錬であった。これによると達磨前世弟子であった太子追って日本飛来し禅宗栄えたとしている。 また、太子信仰神道にも影響与えている。天台僧で神道家であった慈遍は「太子は、神道を種、儒教枝葉仏教花実例えた」とする根葉花実論説き、これを吉田兼倶取り入れて神道優位性説いた

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