各宗派への波及
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左:釈迦三尊十六羅漢像。東京国立博物館蔵最下部の左に太子の勝鬘経講讃像、右に空海が描かれる。叡尊の流れを汲む作例。右:妙源寺の光明本尊のうち右幅。初期真宗に用いられた三幅一舗の光明本尊の作例。中心に描かれるのは下から太子・源信・法然で日本浄土宗の法統を示す。太子の周囲には四随臣が描かれる。 平安時代前期には、四天王寺五重塔の初層壁面に多くの高僧と共に太子の肖像が三尊形式で描かれていた事が記録に残っており、日本仏教の開祖として位置づけられるようになったと考えられる。また、現存最古(11世紀後半)の孝養像とされる一乗寺の「聖徳太子および天台高僧像」では、太子は袈裟姿で描かれている。中世に至ると太子信仰は宗派を超え、多くの宗派が自らを太子の系譜に位置づけて行くようになる。 『伝述一心戒文』によれば、天台宗の開祖最澄は太子の玄孫を自称していたとされる。延暦寺と四天王寺との関わりを強めると、太子と観音を同一視するようになり太子信仰が盛んになっていく。鎌倉時代初頭の天台座主慈円は、自らの思想原理を太子に求めて「末法の世に仏法により王法を守る」ことが摂関家の出である自らの務めと自認していた。慈円は四天王寺別当も13年務めているが、その間に実家である九条家の繁栄や九条立子の安産を四天王寺聖霊院で祈願している。 日蓮宗の日蓮も、慧思後身説や救世観音に言及するなど、太子を崇敬していた。特に『法華経』を将来し、日本仏教興隆の礎を築いたと高く評価するが、その一方で太子の『法華経義疏』には批判を向けている。 真言宗では平安時代末期から太子信仰の影響が現れる。12世紀末成立の『水鏡』では、空海を聖徳太子の生まれ変わりとする説が記されており、『目録抄』でもこれを紹介している。それによれば「転生はインドの勝鬘夫人を起点とし、慧思、太子、空海へと転生した」とあり、慧思後身説を援用している。また、12世紀初頭成立の『東大寺要録』では、真言宗小野流の祖師である聖宝を太子の後身としている。それによれば「太子が聖武天皇に転生し、聖宝に生まれ変わった」としており、東大寺でも真言宗を通して太子信仰の影響があったと言える。 東大寺との関係では重源も挙げられる。13世紀末成立の『百錬抄』によれば、建仁3年(1203年)に太子廟が荒らされ、太子の歯が盗まれるという事件が起きた。この事件を『目録抄』は「犯人は捕らえられ、盗まれた歯は重源の手に渡って東大寺再建の勧進に用いられた」と、より詳細に記している。『目録抄』の伝承の真偽は定かではないが、重源が太子廟に阿弥陀堂を建立した記録が残っている。 戒律の復興に努めた叡尊は、太子廟や法隆寺東院伽藍で多くの人に菩薩戒を授けた。正嘉2年(1258年)には、法隆寺聖霊院で3日3晩の開眼供養を行い、夢告を得たと記している。弘長2年(1262年)には鎌倉に招かれ、北条時頼に依頼されて聖徳太子像の開眼供養などを行っている。叡尊は西大寺にて、2月・5月・9月の22日を太子講の日と定めて実施したほか、旅先でも太子講を広めたとされている。真言宗僧でもあった叡尊は太子信仰と釈迦(舎利)信仰と大師信仰を融合させて、南無仏太子像や釈迦三尊十六羅漢像、扉の左右に大師・太子を配した舎利厨子などを製作したが、これらの模作が多数流通した。その高弟である忍性も太子信仰に傾倒した。京都東山に太子堂を建立し、四天王寺正門には石鳥居を建立している。また、律宗教団が復興させた寺には聖徳太子の創建伝承をもつ寺が多い。 浄土宗西山派の祖証空は、叡福寺に建暦元年(1211年)に舎利容器を奉納し、その後に四天王寺に参詣して夢中で不断念仏を行うと太子が顕現したという伝承がある。 浄土真宗の親鸞も太子を崇敬したことで知られる。親鸞が詠んだ和讃は540首あまりだが、そのうち4割近い191首が太子和讃であり、太子を「和国の教主」と讃えている。親鸞が師事した法然には太子信仰は見られず、親鸞が詠んだ和讃から四天王寺系の影響がみられる。また、親鸞は建仁元年(1201年)に六角堂で百日間参篭を行い、いわゆる「太子の夢告」を得て法然の元に参じた事も知られている。ただし、こうした親鸞による太子信仰はその晩年に顕著になったと考えられている。親鸞は建保2年(1214年)は常陸国稲田に行き、太子像を安置した堂を結んで念仏を広めたが、高島幸次はこの東国布教が親鸞が太子信仰に傾倒するきっかけであったと推測する。鎌倉時代末期に浄土真宗で行われていた絵解き(後述)では、太子伝に法然や親鸞を添えて描かれており、律宗教団の布教により太子信仰が根付いていた東国で太子鑚仰を足掛かりとして真宗教義を広めていったと考えられる。南北朝時代の記録では、真宗寺院の本尊はほとんど太子像であると記録されており、近世には親鸞と救世観音を同一視した上で蓮如との関係を強調するようになっていく。現在でも浄土真宗本願寺派の寺院において阿弥陀如来の脇に太子像を安置する事が多い。 時宗の一遍は、繰り返し四天王寺に参拝している。特に弘安9年(1286年)に叡福寺で参篭し奇端を得た事は『一遍聖絵』でも知られており、また著書『聖徳太子御廟瑞相事舎利事』では、太子に帰依することが重要と説いている。 禅宗では臨済宗の虎関師錬が挙げられる。鎌倉時代に片岡山飢人伝説の仙人を達磨の化身とする説が広まり達磨寺が建立されたが、これを広めたのが虎関師錬であった。これによると達磨は前世で弟子であった太子を追って日本に飛来し、禅宗が栄えたとしている。 また、太子信仰は神道にも影響を与えている。天台僧で神道家であった慈遍は「太子は、神道を種、儒教を枝葉、仏教を花実に例えた」とする根葉花実論を説き、これを吉田兼倶が取り入れて神道の優位性を説いた。
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