戒律の復興
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 05:33 UTC 版)
仏教界の戒律の衰微を憂えて、唐招提寺に持戒伝律の師を尋ね、四分律などの研究を行った。興福寺の欣西らの懇請を受け、南都の戒律復興に乗り出し、1122年(保安3年)8月に『東大寺戒壇院受戒式』を撰述した。鑑真の弟子法進が作った『東大寺受戒方軌』や、道宣の『戒壇図経』等を参照して、作られたものである。この受戒式が実際にどの程度行われたかは問題があるが、実範をもって南都戒律中興の祖と仰ぐのは、この受戒式によるものである。実範は、成身院を中心に、戒律の高揚、持律の必要性を説いた。行尊・蔵俊などに戒を授け、1139年(保延5年)10月には知足院藤原忠実の平等院での出家にあたり、戒師を務めた。実範の戒律の中興は、やがて鎌倉時代の南都戒律の復興の原動力となったとされる。なお、『東大寺戒壇院受戒式』撰述の懇請者である欣西は、42歳にして中川寺に入り、以後32年間、戒律を守った生活をした。
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