戒壇院四天王像
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 09:27 UTC 版)
国宝。奈良時代。塑造。像高持国天160.5センチ、増長天162.2センチ、広目天169.9センチ、多聞天164.5センチ。国宝指定名称は「塑造四天王立像」。天平勝宝7年(755年)、唐僧鑑真によって設立された東大寺戒壇院の中心堂宇である戒壇堂に安置される。戒壇堂内の壇上中央に多宝塔があり、これを護るように壇上四隅に四天王像が立つ。現存する戒壇堂と多宝塔は享保18年(1733年)の再建であるが、四天王像は奈良時代の作である。ただし、戒壇堂に本来安置されていた四天王像は銅造であったことが史料からわかっており、現在安置されている四天王像(塑造)は材質が異なるため、後世他所から移入された像であることが明らかである。壇上、東南隅に東方を守護する持国天像が立ち、以下、西南隅に南方守護の増長天像、西北隅に西方守護の広目天像、東北隅に北方守護の多聞天像が立つ。各像とも塑造(粘土製)で、もとは彩色されていたが、当初の色彩はほとんど剥落し、像表面は白色を呈している。各像の瞳の部分には石が嵌入されている。この石は黒色に見えるが、学術調査時に持国天像の瞳に光を当てたところ、石は緑色を呈しており、像によって石の色を変えている可能性がある。各像の台座天板には光背支柱用の枘穴があるが、もとあった光背はすべて亡失している。各像の手先、足先などに補修や後補の部分があるが、脆弱な素材である塑像としては保存状態はよい。4体のうち、堂内前方に立つ持国天、増長天の2体は目を大きく見張り、怒りの表情をあらわにして仏敵を威嚇する。持国天は冑を被り、口を「へ」の字に結ぶのに対し、増長天は冑がなく、開口する。前者は左足、後者は右足で邪鬼の頭を踏みつけるなど、対称的に造形されている。一方、堂内後方に立つ広目天、多聞天の2体は遠方を見るように目を細め、怒りを内に秘めた表情で静かに立つ。このように、4体からなる群像としての変化を意識した造形がされている。本作はこのような群像としての均衡、自然で均整のとれた動態表現が高く評価されており、『奈良六大寺大観』は本作を「日本彫刻史上における古典様式の頂点」と評している。前述のとおり、この四天王像は当初から戒壇堂にあったものではなく、他所から移入されたものであることが明らかである。本像はその作風や塑土の土質が東大寺法華堂の日光・月光(がっこう)菩薩像と共通することが指摘されており、もとは日光・月光像と一具の像として法華堂に安置されていた可能性が高い。 四天王のうち多聞天 四天王のうち増長天 四天王のうち多聞天
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