戒壇院設立
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唐の高僧・鑑真が失明するほどの艱難辛苦の末に難波にたどり着いたのは、大仏開眼の1年後の、天平勝宝5年(753年)のことである。それまで正式の戒壇のなかった日本からの要請にこたえ来日したもので、鑑真は大仏殿西に戒壇院を設立し、聖武天皇や多くの僧に戒を授けた。これまで、東大寺の僧といえば羂索堂衆だったが、寺内の整備が完了する奈良時代の終わりのころから、この戒壇院でも鑑真の法脈を伝える僧が活動をはじめることとなった。 東大寺戒壇は、下野国の薬師寺や大宰府の観世音寺と三戒壇に数えられ、平安時代に作られ下野薬師寺の代りに発展していった比叡山戒壇とともに多くの官僧を生み出していった。このことは日本仏教に大きな影響を及ぼし、日本から大陸に渡った僧も一人前の比丘として扱われるようになった。また、受戒してからの年数――つまり法臘(戒臘とも)は年功序列制の素となり、寺院内で身を立て、出世していくための「武器」として重視されるようになる。
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