鎌倉時代の再発見とは? わかりやすく解説

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鎌倉時代の再発見

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 09:14 UTC 版)

天寿国繡帳」の記事における「鎌倉時代の再発見」の解説

この繡帳はいつの頃からか所在不明になっていたが、古記録によれば鎌倉時代文永11年1274年)、中宮寺中興の祖とも称される尼僧・信如により、法隆寺から再発見された。信如は、日本仏教における戒律の復興者として知られる貞慶弟子・璋円の娘とされ、中世荒廃していた中宮寺再興尽力した。信如による天寿国繡帳再発見については、建治元年1275年)定円が著した太子曼荼羅講式』、室町時代の『聖誉鈔』(しょうよしょう)などに次のように記されている。信如は、中宮寺復興志していたが、寺の開基である間人皇后命日わからず、それを何とかして知りたい思っていた。そうしたところ、文永10年1273年)のある日、信如は夢告により、間人皇后命日は、法隆寺にある曼荼羅書かれていることを知った法隆寺蔵の中を捜す機会はすぐには訪れなかったが、翌文永11年1274年)、法隆寺綱封蔵ごうふうぞう)に盗人入り蔵の中改めた際に、件の曼荼羅発見。そこに刺繡された銘文解読した結果、信如は間人皇后命日12月21日であると知ることができた。そして、この太子ゆかりの曼荼羅と同じ図柄模本新たに作らせ、建治元年1275年)に開眼供養実施原本模本ともに中宮寺寺宝となったという。 信如による再発見経緯である「寺の開基である間人皇后命日がわからなかったから」というのは理由として不自然だという指摘は、すでに江戸時代学者である穂井田忠友述べている。この点について、美術史家大橋一章は、「間人皇后命日について複数の説があったので、信如は直接原典当たって正確な命日知ろうとしたのではないか」「天寿国繡帳再興中宮寺目玉にしようとしたではないか」と述べている。 文保本『聖徳太子伝記』によれば文保2年1318年)頃には、建治元年作の新曼荼羅中宮寺金堂柱間三間わたって幕のように張り渡されていたという。中宮寺旧境内発掘調査結果から、金堂柱間は約2.6メートルであり、「柱間三間」は約7.8メートルとなる。大橋一章は、この柱間寸法から考えて横幅約4メートル繡帳2帳を横方向つなげていたのではないか想定し当時は新繡帳堂内飾られ太子ゆかりの旧繡帳保管されていたのではないか推定している。

※この「鎌倉時代の再発見」の解説は、「天寿国繡帳」の解説の一部です。
「鎌倉時代の再発見」を含む「天寿国繡帳」の記事については、「天寿国繡帳」の概要を参照ください。

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