鎌倉時代から江戸時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 16:38 UTC 版)
鹿島神宮は武神を祀るため、中世の武家の世にも神威は維持され、歴代の武家政権や大名から崇敬を受けた。源頼朝から多くの社領が寄せられたように、神宮には武家からの奉幣や所領の寄進が多く確認される。その反面、武家による神宮神職への進出や神領侵犯も度々行われており、頼朝により武家の鹿島氏(常陸大掾氏一族)が惣追捕使に任命されて神宮経営に入り込んだことを発端として、藤原氏の影響下からは離れていった。室町時代には、武家政権の神領寄進に平行して在地勢力による侵犯が進み、社殿造営費用にも欠く状態であったという。 江戸時代には江戸幕府からの崇敬を受け、慶長10年(1605年)には徳川家康により本殿(現・摂社奥宮の社殿)が造営された。元和5年(1619年)には徳川秀忠により現在の社殿一式、寛永11年(1634年)には徳川頼房により楼門等が造営された。
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