社殿造営
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伊古奈比咩命神社の社地に関しては、『日本後紀』逸文に次の記載がある。 「 伊豆国言上。三島神。伊古奈比咩神。二前預名神。此神塞深谷摧高巌。平造之地。二千町許。作神宮二院。池三処。神異之事。不可勝計。 」 —『日本後紀』逸文 天長9年5月22日条 上記の文に「神宮二院」とあるように、三嶋神・伊古奈比咩命神は「二院」制を成していたとされる。しかしながら、遺構が明らかでないため制の実際は明らかでない。社誌では、先の「二院」は別境内であるとして、三嶋神は神明(境外末社の十二明神社)、伊古奈比咩命神は火達山の位置と推測されている。 江戸時代の明暦2年(1656年)に社殿が焼失した際には、上記「二院」が同一境内と見なされて本殿2殿が一所に並び建てられることとなった。この制は、寛文2年(1662年)の棟札(今無し)を初見として寛保元年(1741年)まで確認される。 その後、本殿は寛保元年(1741年)に現在見られるような1殿制に改められた。1殿制に改めるにあたっては、遠江国浜松(現在の静岡県浜松市)の五社明神を模したという。現在の本殿は大正11年(1922年)、拝殿は万延元年(1860年)の造営である。
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社殿造営
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社殿の造営について、『常陸国風土記』では天智天皇年間(668年-672年)にすでに造営のことが見える。 『鹿島長暦』によれば大宝元年(701年)に正殿・仮殿が造営されたといい、この時から20年に1度の式年造営が定められたという。この式年造営では、現在の本宮と奥宮の社地を交互に社殿地としたとされる。造営内容は、弘仁3年(812年)に社殿すべての造替から正殿のみの造替に変更された。その後も『日本三代実録』貞観8年(866年)の記事、『延喜式』臨時祭に造営の旨が見える。『日本三代実録』の記事によると、その用材には材木5万余枝、工夫16万余人、料稲18万余束を要したという。 『鹿島町史』によれば、平安時代から戦国時代までの造営の年次は貞観8年(866年)、天慶3年(940年)、長和4年(1015年)、天永2年(1111年)、承安3年(1173年)、建暦元年(1211年)、弘長3年(1263年)、弘安5年(1282年)、正応2年(1289年)、正和4年(1315年)、元亨3年(1323年)、応永25年(1418年)、永享7年(1435年)、大永2年(1522年)、永禄2年(1559年)に確認される。 慶長10年(1605年)には徳川家康により本殿、元和5年(1619年)には徳川秀忠により社殿一式、寛永11年(1634年)には徳川頼房により楼門等が造営された。
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社殿造営
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神宮の社殿は被災が多く、文献には度々再建なされた様子が見える。『気比宮社記』等によると、再建年次は次の通り。 社殿造営年表 氣比神宮の社殿造営 年表年事象造営・遷宮天喜2年(1054年) 炎上 造畢 承暦2年(1078年) 造替・遷宮 保延元年(1135年) 大風で倒壊 再建・遷宮 建久2年(1191年) 焼失 建久7年(1196年) 本殿造営 元久元年(1204年) 遷宮 建長8年(1256年) 焼失 文永2年(1265年) 造畢・遷宮 正中2年(1325年) 地震で倒壊 正慶2年(1333年) 造営・遷宮 建武4年(1337年) 南北朝の戦乱で幣殿以外全焼 暦応2年(1339年) 遷宮 貞治6年(1367年) 造営始(修理か) 永正3年(1506年) 政所社以外全焼 永正12年(1515年) 造営日時定 永正13年(1516年) 遷宮 享禄2年(1526年) 常宮の修理 天文9年(1540年) 修造、翌年遷宮 弘治2年(1556年) 類焼により半焼 元禄元年(1558年) 修造終了、翌年遷宮 元亀元年(1570年) 政所社・炊殿・神楽屋以外を兵火で焼失 元亀2年(1571年) 小祠2宇造営、遷宮 慶長9年(1604年) 造営始 慶長19年(1614年) 正遷宮(旧本殿) 元和元年(1615年) 惣社再興 元和2年(1616年) 拝殿造営 寛永19年(1642年) 平殿再興 正保2年(1645年) 大鳥居造営(現存) 慶安4年(1651年) 御子神9社再興(神宮寺を除いて中世期をほぼ再現) 寛保2年(1742年) 宝殿造営 宝暦5年(1755年) 本殿修造、正遷宮 昭和20年(1945年) 戦災でほぼ全焼 昭和期 昭和の大造営(現本殿) 神宮の中世期の境内の様子は「気比神宮古図」(室町時代後期)によって知られる。また、戦災で焼失した旧本殿は珍しい「両流造」であったことが知られるが(「社殿」節参照)、以上の変遷を踏まえると、その両流造の形式は文永2年(1265年)までは確実に遡ることができ、可能性としては保延(1135年)または元久(1204年)頃に遡ると推測される。 また、現在の神宮の入り口は境内西側に国道8号に面して設けられているが、古くは東側にあったとされている。史料によれば、正安3年(1301年)に神宮を参詣した他阿真教(時宗第2世)は、西参道の沼地を改善するため浜から砂を運んで整地したといい、それ以来神宮の入り口は西側に移ったという。この故事に因み、現在でも時宗総本山の法主交代時には神宮で「お砂持ち」の儀式が行われる。
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社殿造営
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三嶋大社は元は下田市白浜に所在したといわれる。『日本後紀』逸文では社地に関する次の記載があるが、これは白浜鎮座時の描写とされる。 「 伊豆国言上。三島神。伊古奈比咩神。二前預名神。此神塞深谷摧高巌。平造之地。二千町許。作神宮二院。池三処。神異之事。不可勝計。 」 —『日本後紀』逸文 天長9年5月22日条 三島市域での所在を示す最古の史料は『吾妻鏡』治承4年(1180年)記事である。鎌倉時代の『一遍聖絵(一遍上人絵伝)』第6巻では、弘安5年(1282年)に一遍が参詣した際の楼門・拝殿・楼門(神門)・幣殿・本殿からなる社殿が描かれている(ただし『一遍聖絵』には建築史学的に疑義がある)。現在、その様子は三嶋大社宝物館に模型で再現されている。 鎌倉時代以降の文書に見える造営・修復年次は、文治3年(1187年)、建永元年(1206年)、嘉禎元年(1235年)、文永9年(1272年)、正安4年(1302年)、嘉暦4年(1329年)、延文3年(1358年)、応安3年(1370年)、永徳2年(1382年)、応永13年(1406年)、応永25年(1418年)、大永6年(1526年)、慶長9年(1604年)、寛永13年(1636年)、承応3年(1654年)、寛文11年(1671年)、正徳元年(1711年)、宝暦5年(1755年)、安永5年(1776年)、寛政8年(1796年)、文化9年(1812年)、天保3年(1832年)、慶応4年(1868年)、大正12年(1923年)、昭和10年(1935年)。 上記のうち特に、江戸幕府3代将軍・徳川家光による寛永期の造営で大規模な社殿が整えられた。その後の江戸期の社殿の様子を示す史料は多く、絵図では五重塔や護摩堂・経蔵といった仏教施設も見える。しかし嘉永7年(安政元年、1854年)に発生した安政東海地震によってほとんどは倒壊したため、社殿は幕末の慶応4年(1868年)にかけて再建された。その後は、大正12年(1923年)の関東大震災、昭和5年(1930年)の北伊豆地震による被害の修復を経て現在に至っている。
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社殿造営
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住吉大社社殿には、古くから伊勢神宮(三重県伊勢市)・香取神宮(千葉県香取市)・鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)と並んで式年遷宮(式年造替)の制があった。『日本後紀』弘仁3年(812年)条では、住吉・香取・鹿島の三神社での20年ごとの造替について社殿全ての造替から正殿のみの造替に変更すると見え、この年以前からの造替が認められる。同様の旨は『延喜式』臨時祭にも見え、造替費用には神税・正税を充てるとする。なお『伊呂波字類抄』住吉神社項では、「称徳天皇御宇天平神護元年始造宮云々」として奈良時代の天平神護元年(765年)以来の伝統とする。 『玉葉』承安4年(1174年)条によれば大海社神殿の改築が天仁・長承・仁平・承安の約20年ごとに実施されているが、本宮本殿については不詳。平安時代後期からは住吉社造営役が一国平均役として賦課されており、『玉葉』建久4年(1193年)条では天永の宣旨(天永2年(1111年)の遷宮時)に明白として住吉社修造を賀茂・八幡領に賦課する旨が見える。仁平2年(1152年)の文書を初見として住吉造営役の免除もあり、建久5年(1194年)には広田社(廣田神社)の神輿が造営役免除を求めて上洛した。『住吉松葉大記』所収の正平9年(1354年)の注進状によれば、当時の賦課対象は摂津国・和泉国・河内国・丹波国・播磨国に及んだ。その後、永享6年(1434年)までで遷宮は中断し、永正18年(1521年)に遷宮があるも再び中断し、天正4年(1576年)には石山合戦で社殿は焼亡した。 慶長11年(1606年)には豊臣秀頼が住吉社造営を命じ、この時の建造物のうち反橋石桁・南門・東西楽所・石舞台は現在も残されている。その後、江戸時代にも数度の遷宮が実施され、文化7年(1810年)の遷宮では現在の本宮本殿が造営されている。 なお住吉大社側では、天平勝宝元年(749年)を第1回としてこれまでに次の遷宮が行われたとする。 遷宮一覧 第1回:天平勝宝元年(749年) 第10回:延長6年(928年) 第14回:長和3年(1014年) 第15回:長元7年(1034年) 第16回:天喜元年(1053年) 第17回:承保元年(1074年) 第18回:嘉保元年(1094年) 第19回:永久2年(1114年) 第20回:長承3年(1134年) 第21回:仁平3年(1153年) 第22回:承安4年(1174年) 第23回:建久5年(1194年) 第24回:建保2年(1214年) 第25回:文暦元年(1234年) 第26回:建長5年(1253年) 第27回:文永11年(1274年) 第28回:永仁2年(1294年) 第29回:正和3年(1314年) 第30回:建永元年(1334年) 第31回:正平9年(1354年) 第32回:文中3年(1374年) 第33回:応永元年(1394年) 第34回:応永20年(1413年) 第35回:永享6年(1434年) 第36回:永正14年(1517年) 第37回:天文11年(1542年) 第38回:慶長11年(1606年) - 現在の反橋石桁・南門・東西楽所・石舞台。 第39回:元和3年(1617年) 第40回:明暦元年(1655年) 第41回:宝永6年(1709年) - 現在の摂社大海神社社殿。 第42回:宝暦8年(1758年) 第43回:文化7年(1810年) - 現在の本宮社殿。 第44回:明治11-12年(1878-1879年) 第45回:明治34-40年(1901-1907年) 第46回:昭和11年(1936年) 第47回:昭和36年(1961年) 第48回:平成3年(1991年) 第49回:平成23年(2011年)
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社殿造営
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 09:13 UTC 版)
『日本後紀』『日本三代実録』『延喜式』によれば、弘仁3年(812年)以前から、香取神宮には20年に1度の式年造営(式年遷宮)が定められていた。 平安時代末期からの造替年次は、保延3年(1137年)、久寿2年(1155年)、治承元年(1177年)、建久4年(1193年:大風のため)、建久8年(1197年)、承久元年(1219年:戦乱のため嘉禄3年(1227年)に延期)、宝治3年(1249年)、文永8年(1271年)、正応5年(1292年)、元徳2年(1330年)、貞治年間(1362年-1367年)頃、至徳2年(1385年)頃、応永5年(1398年)、永享2年(1430年)、享禄2年(1529年)頃、元亀3年(1572年)に確認される。このほか、正和5年(1316年)、応永31年(1424年)、文明15年(1483年)、明応元年(1492年)にも造営があったとする史料もある。このように鎌倉時代にはほぼ20年に1度の造替が守られているが、南北朝時代以降はそれが困難となっていった様子がわかり、その時期は史料もあまり残っていない。 江戸時代には、幕府によって慶長12年(1607年)に大造営が行われた。元禄13年(1700年)に再度造営が行われ、この時の本殿始め主要社殿が現在に伝わっている。 なお現在の本殿の形式は、「アサメ殿(あさめどの)」の形式を伝えるものとされる。アサメ殿とは神宮にかつて存在した社殿で、普段は磐裂神・根裂神(経津主神の祖父母神)を祀る末社で、正神殿(本殿)の式年遷宮の際にその仮殿(かりどの:神体を仮安置する社殿)として使用されていた。その間には、磐裂神・根裂神の安置のために仮アサメ殿も設定されたという。正神殿は鎌倉時代の元徳2年(1330年)造営のものを最後として造られなくなったと見られており、以後の本殿はこのアサメ殿の形式を継承したと考えられている。 上述のとおり香取神宮においてアサメ殿は重要な役割を果たしていたが、その存在が確認されるのは中世までであり、近世になると廃絶した可能性が高いという指摘がある。アサメ殿の形式は本殿のものの省略版であり、省略に伴い格式も低下していたものだが、香取神宮においては、元徳2年以後、正神殿の造営が困難である状況が長期間継続し、その間、アサメ殿を正神殿の代用とせざるをえなかったと推定され、正神殿復旧の見込みがない中で、正神殿の形式がアサメ殿に部分的に導入された可能性も指摘される。つまり、アサメ殿の格式を高めるような形式変更が確認されており、こうした流れが現在の本殿の形式に影響していったとみられる。 鎌倉時代における正神殿に関しては、古文書から「桁行五間・梁間二間の切妻造平入の身舎で背面一間通りに庇を有する建物」と推定されており、式年造替の存在から、この形式は平安時代前期に遡るものであろうと推測されている。
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社殿造営
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 14:34 UTC 版)
15世紀後半頃の編述と推定される『御神徳記』では、天喜4年(1056年)・寛治5年(1091年)・宝治元年(1247年)・元徳2年(1330年)に社殿焼失や遷宮のことがあったという。また同書によれば室町時代には衰微していたが、文明7年(1475年)に氏子によって再興されたという。 天正7年(1579年)には織田信長の兵火で本殿や摂・末社17社を焼失。その後、慶長7年(1602年)に豊臣秀頼によって再建された。明暦2年(1656年)の絵図には秀頼の再建当時という境内・堂塔の様子が描かれている。それから下り、江戸時代の文政9年(1826年)に現本殿が造営されている。 また、神宮寺としては神護寺・元古庵・平岡寺・法蓮庵・来迎寺・真堂寺の6寺があった。神護寺と平岡寺は創建が中世まで遡るとされる。
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