社殿造営とは? わかりやすく解説

社殿造営

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/24 01:26 UTC 版)

伊古奈比咩命神社」の記事における「社殿造営」の解説

伊古奈比咩命神社社地に関しては、『日本後紀逸文次の記載がある。 「 伊豆国言上三島神。伊古比咩神。二前預名神。此神塞深谷高巌平造之地。二千町許。作神二院。池三処。神異之事。不可勝計。 」 —『日本後紀逸文 天長9年5月22日上記の文に「神宮二院」とあるように、三嶋神・伊古奈比咩命神は「二院」制を成していたとされるしかしながら遺構明らかでないため制の実際明らかでない社誌では、先の二院」は別境内であるとして、三嶋神は神明境外末社十二明神社)、伊古奈比咩命神は火達山の位置推測されている。 江戸時代明暦2年1656年)に社殿焼失した際には、上記二院」が同一境内と見なされて本殿2殿が一所並び建てられることとなった。この制は、寛文2年1662年)の棟札(今無し)を初見として寛保元年1741年)まで確認されるその後本殿寛保元年1741年)に現在見られるような1殿制に改められた。1殿制に改めにあたっては、遠江国浜松現在の静岡県浜松市)の五社明神模したという。現在の本殿大正11年1922年)、拝殿万延元年1860年)の造営である。

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社殿造営

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鹿島神宮」の記事における「社殿造営」の解説

社殿の造営について、『常陸国風土記』では天智天皇年間668年-672年)にすでに造営のことが見える。 『鹿島長暦によれば大宝元年701年)に正殿仮殿造営されたといい、この時から20年1度式年造営定められたという。この式年造営では、現在の本宮奥宮社地交互に社殿地としたとされる造営内容は、弘仁3年812年)に社殿すべての造替から正殿のみの造替変更された。その後も『日本三代実録貞観8年866年)の記事、『延喜式臨時祭造営の旨が見える。『日本三代実録』の記事によると、その用材には材木5万工夫16万余人、料稲18万余束を要したという。 『鹿島町史』によれば平安時代から戦国時代までの造営年次貞観8年866年)、天慶3年940年)、長和4年1015年)、天永2年1111年)、承安3年1173年)、建暦元年1211年)、弘長3年1263年)、弘安5年1282年)、正応2年1289年)、正和4年1315年)、元亨3年1323年)、応永25年1418年)、永享7年1435年)、大永2年1522年)、永禄2年1559年)に確認される慶長10年1605年)には徳川家康により本殿元和5年1619年)には徳川秀忠により社殿一式寛永11年1634年)には徳川頼房により楼門等が造営された。

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社殿造営

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氣比神宮」の記事における「社殿造営」の解説

神宮社殿被災多く文献には度々再建なされた様子見える。『気比宮社記』等によると、再建年次次の通り。 社殿造営年表 氣比神宮の社殿造営 年表事象造営遷宮天喜2年1054年炎上 造畢 承暦2年1078年造替遷宮 保延元年1135年大風倒壊 再建遷宮 建久2年1191年焼失 建久7年1196年本殿造営 元久元年1204年遷宮 建長8年1256年焼失 文永2年1265年) 造畢・遷宮 正中2年1325年地震倒壊 正慶2年1333年造営遷宮 建武4年1337年南北朝戦乱幣殿以外全焼 暦応2年1339年遷宮 貞治6年1367年造営始(修理か) 永正3年1506年政所社以外全焼 永正12年1515年造営日時永正13年1516年遷宮 享禄2年1526年常宮修理 天文9年1540年修造翌年遷宮 弘治2年1556年類焼により半焼 元禄元年1558年修造終了翌年遷宮 元亀元年1570年政所社・炊殿・神楽屋以外を兵火焼失 元亀2年1571年小祠2宇造営遷宮 慶長9年1604年造営慶長19年1614年正遷宮(旧本殿元和元年1615年惣社再興 元和2年1616年拝殿造営 寛永19年1642年) 平殿再興 正保2年1645年大鳥居造営現存慶安4年1651年御子神9社再興神宮寺除いて中世期をほぼ再現寛保2年1742年宝殿造営 宝暦5年1755年本殿修造正遷宮 昭和20年1945年戦災でほぼ全焼 昭和期 昭和大造営(現本殿神宮中世期境内様子は「気比神宮古図」(室町時代後期)によって知られるまた、戦災焼失した本殿は珍しい「両流造」であったことが知られるが(「社殿」節参照)、以上の変遷踏まえると、その両流造の形式文永2年1265年)までは確実に遡ることができ、可能性としては保延1135年)または元久1204年)頃に遡る推測されるまた、現在の神宮入り口境内西側国道8号面して設けられているが、古く東側にあったとされている。史料によれば正安3年1301年)に神宮参詣した他阿真教時宗2世)は、西参道沼地改善するため浜から砂を運んで整地したといい、それ以来神宮入り口西側移ったという。この故事因み、現在でも時宗総本山法主交代時には神宮で「お砂持ち」の儀式が行われる。

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社殿造営

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三嶋大社」の記事における「社殿造営」の解説

三嶋大社は元は下田市白浜所在しといわれる。『日本後紀逸文では社地に関する次の記載があるが、これは白浜鎮座時の描写とされる。 「 伊豆国言上三島神。伊古比咩神。二前預名神。此神塞深谷高巌平造之地。二千町許。作神二院。池三処。神異之事。不可勝計。 」 —『日本後紀逸文 天長9年5月22日三島市域での所在を示す最古の史料『吾妻鏡』治承4年1180年記事である。鎌倉時代の『一遍聖絵一遍上人絵伝)』第6巻では、弘安5年1282年)に一遍参詣した際の楼門拝殿楼門神門)・幣殿本殿からなる社殿描かれている(ただし『一遍聖絵』には建築史学的に疑義がある)。現在、その様子は三嶋大社宝物館模型再現されている。 鎌倉時代以降文書見え造営修復年次は、文治3年1187年)、建永元年1206年)、嘉禎元年1235年)、文永9年1272年)、正安4年1302年)、嘉暦4年1329年)、延文3年1358年)、応安3年1370年)、永徳2年1382年)、応永13年1406年)、応永25年1418年)、大永6年1526年)、慶長9年1604年)、寛永13年1636年)、承応3年1654年)、寛文11年1671年)、正徳元年1711年)、宝暦5年1755年)、安永5年1776年)、寛政8年1796年)、文化9年1812年)、天保3年1832年)、慶応4年1868年)、大正12年1923年)、昭和10年1935年)。 上記のうち特に、江戸幕府3代将軍徳川家光による寛永期の造営大規模な社殿整えられた。その後江戸期社殿様子を示す史料多く絵図では五重塔護摩堂経蔵といった仏教施設見える。しかし嘉永7年安政元年1854年)に発生した安政東海地震によってほとんどは倒壊したため、社殿幕末慶応4年1868年)にかけて再建された。その後は、大正12年1923年)の関東大震災昭和5年1930年)の北伊豆地震による被害修復経て現在に至っている。

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社殿造営

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/11 04:28 UTC 版)

住吉大社」の記事における「社殿造営」の解説

住吉大社社殿には、古くから伊勢神宮三重県伊勢市)・香取神宮千葉県香取市)・鹿島神宮茨城県鹿嶋市)と並んで式年遷宮式年造替)の制があった。『日本後紀弘仁3年812年)条では、住吉香取鹿島三神社での20年ごとの造替について社殿全ての造替から正殿のみの造替変更する見えこの年以前からの造替認められる同様の旨は『延喜式臨時祭にも見え造替費用には神税正税充てるとする。なお『伊呂波字類抄住吉神社項では、「称徳天皇御宇天平神護元年造宮云々」として奈良時代天平神護元年765年以来伝統とする。 『玉葉承安4年1174年)条によれば大海神殿改築天仁長承仁平承安の約20年ごとに実施されているが、本宮本殿については不詳平安時代後期からは住吉社造営役が一国平均役として賦課されており、『玉葉建久4年1193年)条では天永宣旨天永2年1111年)の遷宮時)に明白として住吉社修造賀茂八幡領に賦課する旨が見える。仁平2年1152年)の文書初見として住吉造営役の免除もあり、建久5年1194年)には広田社(廣田神社)の神輿造営役免除を求めて上洛した。『住吉松葉大記』所収正平9年1354年)の注進状によれば当時賦課対象摂津国和泉国河内国丹波国播磨国及んだその後永享6年1434年)までで遷宮中断し永正18年1521年)に遷宮があるも再び中断し天正4年1576年)には石山合戦社殿焼亡した。 慶長11年1606年)には豊臣秀頼住吉社造営命じ、この時の建造物のうち反橋南門東西楽所石舞台は現在も残されている。その後江戸時代にも数度遷宮実施され文化7年1810年)の遷宮では現在の本宮本殿造営されている。 なお住吉大社側では、天平勝宝元年749年)を第1回としてこれまで次の遷宮が行われたとする遷宮一覧 第1回天平勝宝元年749年第10回延長6年928年第14回長和3年1014年第15回長元7年1034年第16回天喜元年1053年第17回承保元年1074年第18回嘉保元年1094年第19回永久2年1114年第20回長承3年1134年第21回仁平3年1153年第22回承安4年1174年第23回建久5年1194年第24回建保2年1214年第25回文暦元年1234年第26回建長5年1253年第27回文永11年1274年第28回永仁2年1294年第29回正和3年1314年第30回建永元年1334年第31回正平9年1354年第32回文中3年1374年第33回応永元年1394年第34回応永20年1413年第35回永享6年1434年第36回永正14年1517年第37回天文11年1542年第38回慶長11年1606年) - 現在の反橋南門東西楽所石舞台第39回元和3年1617年第40回明暦元年1655年第41回宝永6年1709年) - 現在の摂社大海神社社殿第42回宝暦8年1758年第43回文化7年1810年) - 現在の本宮社殿第44回明治11-12年(1878-1879年) 第45回明治34-40年(1901-1907年) 第46回昭和11年1936年第47回昭和36年1961年第48回平成3年1991年第49回平成23年2011年

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社殿造営

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香取神宮」の記事における「社殿造営」の解説

日本後紀』『日本三代実録』『延喜式によれば弘仁3年812年以前から、香取神宮には20年1度式年造営式年遷宮)が定められていた。 平安時代末期からの造替年次は、保延3年1137年)、久寿2年1155年)、治承元年1177年)、建久4年1193年大風のため)、建久8年1197年)、承久元年1219年戦乱のため嘉禄3年1227年)に延期)、宝治3年1249年)、文永8年1271年)、正応5年1292年)、元徳2年1330年)、貞治年間1362年-1367年)頃、至徳2年1385年)頃、応永5年1398年)、永享2年1430年)、享禄2年1529年)頃、元亀3年1572年)に確認される。このほか、正和5年1316年)、応永31年1424年)、文明15年1483年)、明応元年1492年)にも造営があったとする史料もある。このように鎌倉時代にはほぼ20年1度造替守られているが、南北朝時代以降はそれが困難となっていった様子がわかり、その時期は史料もあまり残っていない。 江戸時代には、幕府によって慶長12年1607年)に大造が行われた。元禄13年1700年)に再度造営が行われ、この時の本殿始め主要社殿が現在に伝わっている。 なお現在の本殿形式は、「アサメ殿(あさめどの)」の形式伝えるものとされるアサメ殿とは神宮にかつて存在した社殿で、普段磐裂神根裂神経津主神祖父母神)を祀る末社で、正神殿本殿)の式年遷宮の際にその仮殿かりどの神体を仮安置する社殿)として使用されていた。その間には、磐裂神根裂神安置のために仮アサメ殿も設定されたという。正神殿鎌倉時代元徳2年1330年造営のものを最後として造られなくなった見られており、以後本殿はこのアサメ殿の形式継承した考えられている。 上述のとおり香取神宮においてアサメ殿は重要な役割果たしていたが、その存在確認されるのは中世までであり、近世になると廃絶した可能性が高いという指摘がある。アサメ殿の形式本殿のものの省略版であり、省略に伴い格式低下していたものだが、香取神宮においては元徳2年以後、正神殿造営が困難である状況長期間継続しその間アサメ殿を正神殿代用とせざるをえなかったと推定され、正神殿復旧見込みがない中で、正神殿形式アサメ殿に部分的に導入され可能性指摘される。つまり、アサメ殿の格式高めるような形式変更確認されており、こうした流れ現在の本殿形式影響していったとみられる鎌倉時代における正神殿に関しては、古文書から「桁行五間・梁間二間切妻造平入身舎背面一間通りに庇を有する建物」と推定されており、式年造替存在から、この形式平安時代前期遡るものであろう推測されている。

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社殿造営

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枚岡神社」の記事における「社殿造営」の解説

15世紀後半頃の編述推定される御神徳記』では、天喜4年1056年)・寛治5年1091年)・宝治元年1247年)・元徳2年1330年)に社殿焼失遷宮のことがあったという。また同書によれば室町時代には衰微していたが、文明7年1475年)に氏子によって再興されたという。 天正7年1579年)には織田信長兵火本殿摂・末社17社を焼失その後慶長7年1602年)に豊臣秀頼によって再建された。明暦2年1656年)の絵図には秀頼の再建当時という境内堂塔様子描かれている。それから下り江戸時代文政9年1826年)に現本殿造営されている。 また、神宮寺としては神護寺・元古庵・平岡寺・法蓮庵・来迎寺・真堂寺の6寺があった。神護寺平岡寺は創建中世まで遡るとされる

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