南北朝時代以降とは? わかりやすく解説

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南北朝時代以降

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 14:03 UTC 版)

富士氏」の記事における「南北朝時代以降」の解説

南北朝時代には既に武家としての面が確立されていた。観応の擾乱の際には、観応2年1351年)に上杉憲将により甲斐国への通路警護を命ぜられている。 また駿河国守護である今川氏富士氏関係付ける例の史料として康安2年1362年)に今川範氏有度郡内の富士浅間宮領への乱入狼藉停止する旨の書下状を富士大宮司与えている例が挙げられる。これは今川氏富士氏主従関係ではなく室町幕府意向汲んだのであるとされる。また富士氏一部交通掌握していた。応永16年1409年)には富士長永根原関所領有しており、駿河国甲斐国国境押さえていた。 駿河国守護である今川家当主今川範政亡き後、彦五郎今川範忠)と千代秋丸両氏での家督争い発生した。この家督争い際し富士氏駿河国内の混乱室町幕府報告するなどしている。富士氏は彦五郎への家督相続に対して反対の立場取り、範忠の駿河国下向に際して交戦態となった。しかし室町幕府将軍である足利義教裁定影響大きく、範忠が家督相続することで落ち着いた情勢的には富士氏千代秋丸派は範忠から反逆者として追討されてもおかしくない運命であったが、折しも室町幕府鎌倉府との対立深刻化しており(永享の乱)、8月19日には幕府より今川氏への忠節命じ文書が「富士大宮司」「富士右馬助」へと発給されている。 また享徳の乱の際は室町幕府将軍より袖判口宣案出されており、幕府からも重要視されていた存在であった。同乱の際富士氏扇谷上杉氏味方し享徳4年1455年4月15日上杉持朝から戦功称されている。またこの戦功三島合戦とする見方がある。 この時代当主富士忠時または富士親時であるが、このような動向から15世紀富士氏今川氏従属していないと考えられている。一方文正元年1466年)の足利義政御内書には富士忠時代わり富士親時大宮司職を申し付ける旨の内容があり、足利将軍家富士大宮司職の任命権保持していた。 寛正期の富士家家督相続を巡る混乱期でもあり、瑞渓周鳳日記である『臥雲日件録』には「駿州国人富士父子闘争之事」とあり、『親元日記』には「富士兵部大輔入道親子確執之儀」とある。 また富士氏室町幕府奉行衆であったことが確認されている。

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南北朝時代以降

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/14 07:03 UTC 版)

長尾氏」の記事における「南北朝時代以降」の解説

長尾氏系図2(鎌倉懸・足利長尾氏丸数字歴代家宰職。 長尾景忠 景直 景行 (長尾氏)満景① (鎌倉長尾氏)景英 系図3へ 景永 実景⑤ 房景② 景住 実景⑤ 景④⑥ 房清 房清 (足利長尾氏)景人 景明 景長 定景 景利 憲長 景義 当長長 政宣長 長尾氏系図3(白井・総社長尾氏丸数字歴代家宰職。 景広系の江戸時代以降米沢藩#分領家14戸)参照景行総社長尾氏景行白井長尾氏)清景 忠綱 景守 憲明 忠政③ 景仲④⑥ 景明 景棟 景信⑦ 忠景⑧ 景明 実明 忠景⑧ 景春 憲景 顕忠⑨ 景致 成田顕泰 景英 景忠 定明 顕方 顕方 成田氏へ 景誠 深井景考 顕景 景秀 景憲 憲景 景孝 憲景 景総 輝景 景広 越後長尾氏系図 丸数字越後守護代 古志上田長尾家当主には異説あり 長尾景恒① (府中長尾氏)高景② 依景 (古志長尾氏)景晴 (上田長尾氏)長景 邦景③ 景房 宗景 房景 益景 実景 頼景④ 秀景? 憲景 慶景 重景⑤ 四郎 憲長? 信景 能景⑥ 孝景 景隆 俊景 為景⑦ 為重 房景 房長 晴景⑧ 景虎⑨(上杉謙信) 景連(謙忠) 上杉景信 政景 千代 景勝 景虎 義景 上杉景勝 米沢上杉氏道満

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南北朝時代以降

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/16 00:48 UTC 版)

武蔵七党」の記事における「南北朝時代以降」の解説

南北朝時代には武蔵残った武蔵七党系の中小武士団結束して国人一揆結成した『太平記』では、平一揆や白旗一揆が有名である。 その後武蔵平一揆の乱で河越氏没落国人達は武州南一揆や北一揆などを作り関東管領上杉氏後北条氏の下で戦った

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南北朝時代以降

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/06 05:47 UTC 版)

秩父氏」の記事における「南北朝時代以降」の解説

南北朝時代には北朝についた河越直重平一揆を結成し武蔵野合戦笛吹峠の戦い戦功挙げた遠縁である畠山国清協力し鎌倉府重要な地位占め武蔵国実権取り戻した一族室町幕府から相模国守護伊豆国守護任じられた。しかしその後解任された。1368年正平23年/応安元)に武蔵平一揆の乱を起こした敗れて伊勢国逃亡した江戸氏南北朝の争乱において、初め新田義貞に従って南朝側につき、後に北朝足利尊氏帰順し鎌倉公方仕えた北朝帰順した後は畠山国清の命により矢口渡新田義興謀殺加わったその後江戸氏武蔵平一揆衰退したが、戦国時代において庶流世田谷城吉良氏家臣として古河公方、後に後北条氏仕えて命脈保った後北条氏滅亡後徳川家康家臣となり、姓を喜多見氏改めた喜多見重政徳川綱吉寵臣として譜代大名となり、喜多見藩立藩藩主家となる。しかし、元禄2年1689年2月2日に突然改易され、大名である喜多見氏滅びた

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南北朝時代以降

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/01 16:20 UTC 版)

大司農」の記事における「南北朝時代以降」の解説

南北朝時代以降、大司農業務新設され尚書移管財務業務主管せず朝廷倉庫管理する官職となり司農卿称され隋代から宋代に沿襲されている。元代になると大司農司が設置され農業振興水利天災などの対応がその職掌とされたが、明代廃止となり、大農司の業務戸部移管された。しかし明清代には戸部が糧田租税の業務主管したことより戸部尚書大司農称していた。

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