南北朝時代以降
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南北朝時代には既に武家としての面が確立されていた。観応の擾乱の際には、観応2年(1351年)に上杉憲将により甲斐国への通路の警護を命ぜられている。 また駿河国守護である今川氏と富士氏を関係付ける早例の史料として、康安2年(1362年)に今川範氏が有度郡内の富士浅間宮領への乱入狼藉を停止する旨の書下状を富士大宮司に与えている例が挙げられる。これは今川氏と富士氏の主従関係ではなく室町幕府の意向を汲んだものであるとされる。また富士氏は一部交通を掌握していた。応永16年(1409年)には富士長永が根原の関所を領有しており、駿河国と甲斐国の国境を押さえていた。 駿河国守護である今川家当主今川範政亡き後、彦五郎(今川範忠)と千代秋丸両氏での家督争いが発生した。この家督争いに際し、富士氏は駿河国内の混乱を室町幕府に報告するなどしている。富士氏は彦五郎への家督相続に対して反対の立場を取り、範忠の駿河国下向に際して交戦状態となった。しかし室町幕府将軍である足利義教の裁定の影響は大きく、範忠が家督相続することで落ち着いた。情勢的には富士氏ら千代秋丸派は範忠から反逆者として追討されてもおかしくない運命であったが、折しも室町幕府と鎌倉府との対立が深刻化しており(永享の乱)、8月19日には幕府より今川氏への忠節を命じる文書が「富士大宮司」「富士右馬助」へと発給されている。 また享徳の乱の際は室町幕府将軍より袖判口宣案が出されており、幕府からも重要視されていた存在であった。同乱の際富士氏は扇谷上杉氏へ味方し、享徳4年(1455年)4月15日に上杉持朝から戦功を称されている。またこの戦功を三島合戦とする見方がある。 この時代の当主は富士忠時または富士親時であるが、このような動向から15世紀の富士氏は今川氏に従属していないと考えられている。一方、文正元年(1466年)の足利義政御内書には富士忠時に代わり富士親時へ大宮司職を申し付ける旨の内容があり、足利将軍家が富士大宮司職の任命権を保持していた。 寛正期の富士家は家督相続を巡る混乱期でもあり、瑞渓周鳳の日記である『臥雲日件録』には「駿州国人富士父子闘争之事」とあり、『親元日記』には「富士兵部大輔入道親子確執之儀」とある。 また富士氏は室町幕府の奉行衆であったことが確認されている。
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南北朝時代以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/14 07:03 UTC 版)
長尾氏系図2(鎌倉・犬懸・足利長尾氏) 丸数字は歴代家宰職。 長尾景忠 景直 景行 (犬懸長尾氏)満景① (鎌倉長尾氏)景英 系図3へ 景永 実景⑤ 房景② 景住 実景⑤ 景仲④⑥ 房清 房清 (足利長尾氏)景人 景明 景長⑪ 定景 景利 憲長⑫ 景義 当長⑬ 顕長 政長 宣長 長尾氏系図3(白井・総社長尾氏) 丸数字は歴代家宰職。 景広系の江戸時代以降は米沢藩#分領家(14戸)参照。 景行 (総社長尾氏)景行 (白井長尾氏)清景 忠綱 景守 憲明 忠政③ 景仲④⑥ 景明 景棟 景信⑦ 忠景⑧ 景明 実明 忠景⑧ 景春 憲景 顕忠⑨ 景致 成田顕泰 景英 景忠 定明 顕方⑩ 顕方⑩ 成田氏へ 景誠 深井景考 顕景 景秀 景憲 憲景 景孝 憲景 景総 輝景 景広 越後長尾氏系図 丸数字は越後守護代 古志・上田長尾家当主には異説あり 長尾景恒① (府中長尾氏)高景② 依景 (古志長尾氏)景晴 (上田長尾氏)長景 邦景③ 景房 宗景 房景 益景 実景 頼景④ 秀景? 憲景 慶景 重景⑤ 四郎 憲長? 信景 能景⑥ 孝景 景隆 俊景 為景⑦ 為重 房景 房長 晴景⑧ 景虎⑨(上杉謙信) 景連(謙忠) 上杉景信 政景 猿千代 景勝 景虎 義景 上杉景勝 米沢上杉氏へ 道満丸
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南北朝時代以降
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南北朝時代には武蔵に残った武蔵七党系の中小武士団が結束して、国人一揆を結成した。『太平記』では、平一揆や白旗一揆が有名である。 その後、武蔵平一揆の乱で河越氏は没落。国人達は武州南一揆や北一揆などを作り、関東管領上杉氏や後北条氏の下で戦った。
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南北朝時代以降
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南北朝時代には北朝側についた河越直重が平一揆を結成し、武蔵野合戦や笛吹峠の戦いで戦功を挙げた。遠縁である畠山国清と協力し、鎌倉府で重要な地位を占め、武蔵国の実権を取り戻した。一族は室町幕府から相模国守護や伊豆国守護に任じられた。しかしその後解任された。1368年(正平23年/応安元)に武蔵平一揆の乱を起こしたが敗れて伊勢国に逃亡した。 江戸氏は南北朝の争乱において、初めは新田義貞に従って南朝側につき、後に北朝、足利尊氏に帰順して鎌倉公方に仕えた。北朝に帰順した後は畠山国清の命により矢口渡で新田義興謀殺に加わった。その後江戸氏も武蔵平一揆で衰退したが、戦国時代において庶流が世田谷城主吉良氏の家臣として古河公方、後に後北条氏に仕えて命脈を保った。後北条氏滅亡後は徳川家康の家臣となり、姓を喜多見氏に改めた。喜多見重政は徳川綱吉の寵臣として譜代大名となり、喜多見藩を立藩、藩主家となる。しかし、元禄2年(1689年)2月2日に突然改易され、大名である喜多見氏は滅びた。
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南北朝時代以降
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南北朝時代以降、大司農の業務は新設された尚書に移管、財務業務を主管せず朝廷の倉庫を管理する官職となり司農卿と称され、隋代から宋代に沿襲されている。元代になると大司農司が設置され、農業振興や水利、天災などの対応がその職掌とされたが、明代に廃止となり、大農司の業務は戸部に移管された。しかし明清代には戸部が糧田租税の業務を主管したことより、戸部尚書を大司農と称していた。
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