瑞渓周鳳とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 同じ種類の言葉 > 宗教 > 仏教 > > 瑞渓周鳳の意味・解説 

ずいけい‐しゅうほう〔‐シウホウ〕【瑞渓周鳳】

読み方:ずいけいしゅうほう

[1392〜1473]室町中期臨済宗の僧。和泉(いずみ)の人。号、臥(がうん)山人南都華厳学び景徳寺等持寺相国寺に歴住。のち、鹿苑院(ろくおんいん)塔主となった足利義政信任を受け、外交文書作成編著善隣国宝記」、日記臥雲日件録」など。諡号(しごう)、興宗明教禅師


瑞渓周鳳

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/23 22:29 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動

瑞渓周鳳(ずいけいしゅうほう、明徳2年/元中8年12月8日1392年1月2日)- 文明5年5月8日1473年6月3日))は、室町時代中期の臨済宗夢窓派の和泉国の出身で、俗姓は大伴氏は周鳳。は瑞渓。臥雲山人とも称される。諡号は興宗明教禅師(文明14年(1482年)勅諡)。

生涯

10歳のとき応永の乱で父を失った。このため、応永11年(1404年)に京都相国寺の無求周伸(むきゅうしゅうしん)を頼って上洛し、応永13年(1406年)に無求を師として出家した。応永20年(1413年)に師の死に逢ってその法を継承し、更に厳中周噩(げんちゅうしゅうがく)らの下で修行した。季瓊真蘂の推挙によって6代将軍足利義教に拝謁してその文筆を高く評価され、永享8年(1436年)に山城国景徳寺の住持に任ぜられる。翌年十刹の1つである等持寺の住持となり、永享11年(1439年)に発生した永享の乱後の処理のために義教の命を受けて関東に下向している。永享12年(1440年)に相国寺第50世住持となり、文安3年(1446年)10月に相国寺鹿苑院院主兼僧録に任じられ、後に康正2年(1456年)と応仁元年(1467年)に再任されて死去までに通算3度務めた。引き続き8代将軍足利義政に重用され、文筆の才により室町幕府の外交文書の作成にあたった。外交史書の『善隣国宝記』を編集し、足利義満との朝貢形式の外交を非難している。『臥雲日件録』という日記も著し、今参局烏丸資任有馬持家(子の有馬元家とも)を非難している。




瑞渓周鳳と同じ種類の言葉


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「瑞渓周鳳」の関連用語









9
善隣国宝記 デジタル大辞泉
100% |||||

10
四河入海 デジタル大辞泉
100% |||||

瑞渓周鳳のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



瑞渓周鳳のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
デジタル大辞泉デジタル大辞泉
(C)Shogakukan Inc.
株式会社 小学館
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの瑞渓周鳳 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS