南北朝の争乱とは? わかりやすく解説

南北朝の争乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/25 06:39 UTC 版)

肝付兼重」の記事における「南北朝の争乱」の解説

このころ鎌倉幕府末期的症状呈し後醍醐天皇討幕運動繰り返されていた。元弘三年1333年)、鎌倉幕府滅亡し建武の新政始まったが、足利尊氏謀叛によって新政崩壊以後、南北朝の争乱となった。 この情勢にあたって肝付兼重建武2年1335年)末から日向高城拠って南朝方となり、各地転戦し野辺盛忠伊集院忠国と共に九州における南朝勢力の拡大貢献した八代伊東祐広、肥後菊池武敏阿蘇氏らと呼応して国富庄に入り大い威を振るった一方島津氏ははじめ南朝方にあったが、のちに足利尊氏味方したため、肝付氏島津氏対立関係となった尊氏延元元年1336年畠山直顕日向・大方面派遣して肝付氏対抗させ、それに豊後佐伯氏大隈禰寝氏日向土持氏らにも協力求め、さらに島津貞久帰国させて肝付氏に当たらせた。島津氏は兼重方の姫木城三俣山之口王子城を攻め、ついで、肝付兼隆拠る加瀬田城攻撃してこれを落した畠山直顕は兼重の守る高城月山日和城)に迫ったが、兼重はよく防戦し直顕勢を撃退したこのころより、南朝優勢に事態動いたが、延元四年(1339年)に至って高城は直顕勢によって落され、兼重は大高山本城入ったその結果日向における肝付氏勢力は振るわなくなったその後、兼重は頽勢挽回するため、鹿児島攻略策したがならず、大隈地方転戦した戦況覆すことはできなかった。 正平4年/貞和5年1349年)、北朝側の石井中務丞重信石井氏)を攻めたが、まもなく病死した。 家督は子・秋兼が継いだ

※この「南北朝の争乱」の解説は、「肝付兼重」の解説の一部です。
「南北朝の争乱」を含む「肝付兼重」の記事については、「肝付兼重」の概要を参照ください。

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