南北朝の争乱での武士の拡大とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 南北朝の争乱での武士の拡大の意味・解説 

南北朝の争乱での武士の拡大

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/07 02:10 UTC 版)

武士団」の記事における「南北朝の争乱での武士の拡大」の解説

しかし、それでも源平の争乱僅かに5年であり、しかも東から西漸次戦場移していった。その次ぎ武士層の拡大は、鎌倉幕府崩壊から南北朝の争乱であり、この段階で日本全国長年に渡る争乱時代へと突入する。それに比べれば治承・寿永の乱源平合戦)などは瞬間出来事である。武器戦闘様式から見ても、平安時代から鎌倉時代鎌倉幕府の滅亡までの間ではそう大きな変化は無い。近藤好和はそれが変化し始めたのは南北朝時代とする。つまり騎馬武者弓箭でなく打物メイン武器として使い始めた。 また佐藤進一はその戦闘様式変化を、登場合わせて悪党」や「溢者」を前身とする「武士」層の末広がりとされる南北朝時代には少なくとも旧勢力からは「悪党」と呼ばれる者の増加参戦があり、例え赤松則村円心)や、楠木正成代表的な悪党とされる。しかし問題それよりも、もっと下層武士の中にそれまで武士身分を持たなかった多数の「悪党」が加わっていったことだろう。 永原慶二によれば武士団成立した12世紀から南北朝時代にかけての在地領主軍事力は、同族的なイエ単位とするものであり、数10人から200程度兵力単位軍団であり、大地域の軍事的統領はこうしたイエ軍団連合組織した。既に触れた白旗一揆」や「桔梗一揆」、その他の国一揆などはみなそうであるとする。

※この「南北朝の争乱での武士の拡大」の解説は、「武士団」の解説の一部です。
「南北朝の争乱での武士の拡大」を含む「武士団」の記事については、「武士団」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「南北朝の争乱での武士の拡大」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「南北朝の争乱での武士の拡大」の関連用語

1
6% |||||

南北朝の争乱での武士の拡大のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



南北朝の争乱での武士の拡大のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの武士団 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS