南北朝の内乱勃発とは? わかりやすく解説

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南北朝の内乱勃発

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 07:59 UTC 版)

文観」の記事における「南北朝の内乱勃発」の解説

延元元年/建武3年12月21日1337年1月23日)、後醍醐天皇三種の神器擁して京都脱出し大和国吉野奈良県南部)で南朝開いた南北朝時代幕開けである。後醍醐天皇は、同月29日には真言宗の大拠点一つである高野山金剛峰寺願文納めた。 この時の後醍醐天皇京都脱出付き従った真言僧として確実な記録が残るのは、文観弘真兄弟弟子かつ弟子で、第63醍醐寺座主務めた高僧の道祐である。一方文観がこの時点後醍醐随行したかは明らかではない。仏教美術研究者内田啓一によれば、このときの醍醐寺座主賢俊東寺長者の成助も文観付法受けている(師の一人文観としている)ことを考慮すれば、文観後醍醐腹心であるとはいえ、必ずしも直ち吉野追随したとは考えなくてもよいのではないか、という。 いずれにせよ文観遅くとも延元2年/建武4年1337年3月15日には南朝合流し吉野居住していたと推測可能である。この日、『金峯山秘伝という事相書(真言密教実践書)の上巻を著しており、題名からして吉野金峯山周辺述作したと考えられるからである。奥書には「奉為国家護持」などとあるので、文観には南朝護持意志もあったとみられる文観同年後半には著作活動専念し7月に『金峯山秘伝下巻7月30日に『護摩次第』、9月21日に『大毘盧遮那仏眼法』、12月7日に『地蔵菩薩法 最秘』など多数の書を撰述した。これらの書の内容奥書からは、後醍醐天皇が、父帝真言密教傾倒した後宇多天皇見習い、帝自ら吉野盛んに修法祈祷)を行っていたことや、それを補佐するために文観後醍醐専属学僧として活動していたことが見えてくる。 また、この年文観吉野現光寺(後の奈良県吉野郡大淀町世尊寺)に赴き、かつて正安2年1300年)、数え23歳時に自身描いた真言律宗開祖叡尊画像(のち東京都室泉寺)を再見した(#比丘になる)。文観はこのとき数え60歳であり、37年前の若かりし頃に描いた作品向き合って感慨のあまり再署名をしている。署名には、律僧としての初心に帰って菩薩浄戒という戒律護持することを改めて誓うと共に、「前東寺一長者醍醐寺座主法務」と真言僧としても束の間とはいえ栄耀栄華極めたことを記している。

※この「南北朝の内乱勃発」の解説は、「文観」の解説の一部です。
「南北朝の内乱勃発」を含む「文観」の記事については、「文観」の概要を参照ください。

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