南北朝の内乱勃発
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延元元年/建武3年12月21日(1337年1月23日)、後醍醐天皇は三種の神器を擁して京都を脱出し、大和国吉野(奈良県南部)で南朝を開いた。南北朝時代の幕開けである。後醍醐天皇は、同月29日には真言宗の大拠点の一つである高野山金剛峰寺に願文を納めた。 この時の後醍醐天皇の京都脱出に付き従った真言僧として確実な記録が残るのは、文観房弘真の兄弟弟子かつ弟子で、第63代醍醐寺座主も務めた高僧の道祐である。一方、文観がこの時点で後醍醐に随行したかは明らかではない。仏教美術研究者の内田啓一によれば、このときの醍醐寺座主の賢俊も東寺長者の成助も文観の付法を受けている(師の一人を文観としている)ことを考慮すれば、文観は後醍醐の腹心であるとはいえ、必ずしも直ちに吉野に追随したとは考えなくてもよいのではないか、という。 いずれにせよ、文観は遅くとも延元2年/建武4年(1337年)3月15日には南朝に合流し、吉野に居住していたと推測可能である。この日、『金峯山秘伝』という事相書(真言密教の実践書)の上巻を著しており、題名からして吉野の金峯山周辺で述作したと考えられるからである。奥書には「奉為国家護持」などとあるので、文観には南朝護持の意志もあったとみられる。 文観は同年後半には著作活動に専念し、7月に『金峯山秘伝』下巻、7月30日に『護摩次第』、9月21日に『大毘盧遮那仏眼法』、12月7日に『地蔵菩薩法 最秘』など多数の書を撰述した。これらの書の内容や奥書からは、後醍醐天皇が、父帝で真言密教に傾倒した後宇多天皇を見習い、帝自ら吉野で盛んに修法(祈祷)を行っていたことや、それを補佐するために文観が後醍醐専属の学僧として活動していたことが見えてくる。 また、この年、文観は吉野の現光寺(後の奈良県吉野郡大淀町の世尊寺)に赴き、かつて正安2年(1300年)、数え23歳の時に自身が描いた真言律宗開祖叡尊の画像(のち東京都室泉寺蔵)を再見した(#比丘になる)。文観はこのとき数え60歳であり、37年前の若かりし頃に描いた作品に向き合って、感慨のあまり再署名をしている。署名には、律僧としての初心に帰って菩薩浄戒という戒律を護持することを改めて誓うと共に、「前東寺一長者醍醐寺座主法務」と真言僧としても束の間とはいえ栄耀栄華を極めたことを記している。
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