南北朝の騒乱と宝寿院家の成立とは? わかりやすく解説

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南北朝の騒乱と宝寿院家の成立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/10 22:43 UTC 版)

宝寿院 (祇園社の社家)」の記事における「南北朝の騒乱と宝寿院家の成立」の解説

その後行円から枝分かれした紀姓の数家執行職を持ち回りをした。その中で大きな勢力持ったのが、行円の子孫に、安部晴明の子孫が入家したものといわれる「晴」字を通字とする家系と、同じく行円の孫・顕玄を祖とする「顕」字を通字とする家系であり、鎌倉時代にはこの二つ家系持ち回りにより長吏執行に就いていた。しかし南北朝騒乱の際、祇園社南朝方と北朝方に分かれて争うこととなり、足利尊氏北朝方についた顕詮と、南朝方についた静晴の闘争経て北朝勝利により顕詮流に執行家は統一され、「晴」系の家系排除され消滅した。顕詮以降、顕玄流は足利尊氏御師として活動したため、顕詮の記した祇園社日記」は中世日本史の重要史料となっている。顕詮の子足利義満御師であった顕深は後小松天皇宣旨により執行職の世襲認められるとともに殿上人扱いとされた。また、顕深は「宝寿院」の院号名乗った最初であるとされ、以後宝寿院家が祇園社の長となる体制確立された。さらに、義満御教書により、伝統的に祇園社社領とされてきた「北は三条、南は五条、西は四条堤、東は東山」とする広大な区域宝寿院家が血縁相続することを認められた。また、義満政策によって祇園社延暦寺からの独立果たした以後宝寿院家は世襲により、足利将軍家の「御師」として室町幕府滅亡まで歴代足利将軍仕えることとなる。

※この「南北朝の騒乱と宝寿院家の成立」の解説は、「宝寿院 (祇園社の社家)」の解説の一部です。
「南北朝の騒乱と宝寿院家の成立」を含む「宝寿院 (祇園社の社家)」の記事については、「宝寿院 (祇園社の社家)」の概要を参照ください。

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