南北朝の動乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/21 14:13 UTC 版)
南北朝時代の動乱は、辺境である薩摩国も巻き込み、薩摩国守護であった島津氏は北朝側、矢上氏は南朝側に立っていた。島津氏は当初薩摩国国府に近い出水を拠点としていたが、やがて薩摩国、大隅国双方ににらみの利く鹿児島に拠点を移そうとした。そこで問題となったのが、南朝側の矢上氏が鹿児島の重要地点・東福寺城に陣取っていたことであった。当時矢上氏は一族の中村高純に東福寺城を守らせていた。 暦応3年(1340年)島津貞久は弟の佐多忠光に東福寺城を攻めさせる。南朝側に立っていた肝付兼重は救援のため高山城から駆けつけ、島津勢を撃退した。 暦応4年(1341年)、島津貞久は再び東福寺城を攻略する。双方に多数の死者が出たと言われるこの合戦で遂に東福寺城は落城し、これ以後島津氏の拠点となった。
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